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ストライキは迷惑か、それとも

臨港バスの従業員がストライキを起こした。横浜市内と羽田空港を結ぶ便もあるため、ストにより約10万人もの人たちに影響が出ている。
ストライキ:川崎鶴見臨港バス 36路線、始発から運休 - 毎日新聞

 

「ストライキ」と聞くと、私は沖縄(宮古島)での旅行を思い出す。宮古島から羽田に帰る2日前、航空会社から一本の電話が入った。「明日からストライキに入るかも知れません。もしかすると、お客様の便は欠航する恐れがあります」と。聞いたと直後は、あまりにも人ごとのような口調に驚いたが、その所為もあってか、台風が来たと思えばいいかと気持ちを切り替えられた。結果的には、ストライキは起こらず、予定通り運航して帰ることができた。だが、客観的に考えて、もし欠航していれば、宿泊代や空港会社の手配など色々と迷惑を被っていたに違いない。当然、余分な費用や時間も発生している。

客の立場から言えば、私はストライキは好きじゃない。労働者の権利なのだから客も我慢しろ、ストライキを起こす従業員ではなく経営者が悪いという論も分からなくもない。こんな感じで。

 

だが、客からすれば、内部のゴタゴタに巻き込まれたのは事実だ。ストライキは、従業員が経営者に対して売上と客の迷惑を人質にした交渉手段である。ある意味、最終手段だ。軽々に使って欲しくはない。

では、ストライキはすべて迷惑かと言えばそうではない。迷惑度合いが職種によって異なる。

前出のニュースと私の事例は、交通機関の話だ。だから、迷惑度合いが高い。もし、街にあるどこかの飲食店でストライキが起きて閉店していても、「あっそ、頑張ってね」の所感しか持たず、どこかほかのお店で食事をするだけだ。このように、一言でストライキといっても、迷惑度合いが職種によって異なる。問題は、迷惑度合いに見合うだけの正当性がストライキにあるかどうか。もちろん、なければやってはいけないと言うつもりはない(与えられた権利なので)。ただ、正当性が乏しければ客は納得しないだろろう。

もし、交通機関に関わる職種で賃金交渉のストライキが起き、私が客なら「ふざけんな! てめーらの賃金交渉のためになんで俺が迷惑被らなきゃいけないんだよ。不当な賃金であるなら、労働組合にでも訴えればいいだろう」と思うに違いない。

前出のニュースのストライキは、安全性向上のためらしい。組合にも訴えたが改善されなかったようだ。

 

こういう事情であれば、正当性は高い。あとは、迷惑を被った人たちが、迷惑度合いと正当性が釣り合っているかどうかを決めればいい。

客の立場で色々述べてみたが、基本私は、日本人は他人の迷惑を熟慮する国民性だと思っており、正当性の低いストライキはほぼないと信じている。

 

 

流行語大賞に「日本死ね」がノミネートされちゃった問題について

流行語大賞に「日本死ね」がノミネートされちゃった問題。各所で賛否両論があるが、この問題、3つのレイヤーがあり、それぞれ分けて考えたほうがいい。私が思うに、「問題提起」「表現」「ノミネート」の3つのレイヤーがある。

 

1、問題提起
「保育園に入れない、どうなっているんだ」。実際にある社会問題の一つで、提言としては別に問題ない。

 

2、表現
「日本死ね」。表現がまずい。苦言を呈する人が出てくるのは必定。ブログを読めば(文脈が読めれば)、本気で「日本死ね」と言いたい訳ではないのは分かるが、批判されるのは仕方ない。

 

3、ノミネート
「日本死ね」は、社会問題から出た言葉であり、本来、栄誉あるものではない。政治家がヘラヘラして授賞式に出るのはズレている。

 


3つあるレイヤーを一括りにして評論するのは難しい。表現が間違っているから、問題提起に耳を傾けなくていいという態度は違うし、是正のきっかけになったのだからといって表現を評価すべきというのも違う。

 

 


蛇足

 

「保育園落ちた、日本死ね」のブログを初めて読んだとき、私は心情を吐露したブログだと思った。

私もブログを書いているので分かるが、無名の人間が意図的にバズを起こすことはできない。たまたま、鬱憤を晴らすつもりで綴ったブログがバズり、あれよあれよという間に広がり、マスコミに取り上げられ、政治利用され、法整備が進んだ。表現云々と言う人もいるが、一個人が鬱憤を発散するために書いたブログだと考えれば、あんな表現にもなるだろう。筆者自身も、鬱憤ばらしに書いたブログ記事がまさかここまで大事になるとは思っていなかったに違いない。

私が筆者なら、「ここまで大事になるとは知らず、不適切な表現をしてしまい、気分を害された方には、大変申し訳ないことをしました。しかし、保育園に入れなかったのは事実です。待機児童問題は日本の深刻な問題と考えます。これをきっかけに、待機児童問題について考えていただければと思います」的なことを書いたかも知れないかな。

 

なぜ、若者は消費しなくなったのか

「若者が消費しなくなったようですが、深井さんはどう思いますか?」。先日、とあるセミナー主催者からそう問われ、私は「ネットさえあれば、無料の娯楽が楽しめますからね。そっちに流れていると思いますよ」と答えた。これ以上の話はしなかったように思うが、もう少し突っ込んでみたいと思う。

今や、スマホさえあれば、無料ゲームをはじめ動画やSNSなどの無料コンテンツや交流が楽しめる。わざわざ外出してお金を使い娯楽を楽しむ必要がほとんどない。無料で楽しめる娯楽の普及は、若者の消費離れの要因となっている。

だが、それ以上に大きな要因がある。それは「お金がない」だ。若者の収入が少ないため、消費をしなくなったのだ。「お金がないから無料の娯楽に流れている」と言ったほうが正しいかもしれない。

以下のリンクにある三橋氏の見解に私も同意する。

三橋 (元)総理、あれなんですよ。マスコミは……日本人、若者が外に出ませんよね。移民もしません。「内向きだ」とか言うわけなんですよ。なんじゃこいつらは、と。今の若者って所得が少なくて車が買えないんですよ。本当に、少なくて買えないんですね。
それをとらえて「若者は車も買わない、草食化してる」とか、めちゃくちゃ言ってくるんですよ、あの連中は。「どうしたらいいんでしょう」という話が、結局根本なんですけどね。

 

Twitterにおける面白いアンケートがあった。

 

回答数を見ても、統計的にそこそこ当てにしていい数字だろう。

「若者が消費をしなくなった」「○○離れしている」の主因は、経済的理由にあると思っていい。「消費したいけど、できない」「○○離れしたくないけど、しざるを得ない」が真実に近いのではないだろうか。それに加えて、所有(消費)しなくても安価に生活できるレンタルやシェアサービスが普及したこと、無料でも十分楽しめるコンテンツが溢れていることも、消費離れを助長している。まぁ、これは原因でもあり結果でもあるがな。

ちなみに私も、休日に無料動画を観たりブログを書いて過ごす日が多い。十分に楽しい。若者じゃないけどな。

 

 

まとめ

状況的にも環境的にも、若者は消費をしない、できない、しなくても済む時代に生きている。日本経済はこのまま緩やかに低迷を続けると思われるため、若者の消費が旺盛になることはないと思われる。

 

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関連書籍

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若者はなぜモノを買わないのか (青春新書インテリジェンス)

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SNSがもたらした二つの娯楽

ちきりんのツイートにリプを送ったら返信がもらえた。うれピ。


今回は、この話に通じた話題を今回はしたいと思う。

 

 

SNSがもたらした二つの娯楽(快感)

SNSは二つの娯楽(快感)を与えた。一つが前出の「正義の娯楽化」である。以前にもこちら記事でも書いたが要約したいと思う。

「人間が集団生活をする上でルールを破ったものに罰を与える必要があった。とはいえ、罰を与えることに気が引けていては、秩序が保たれない。そこで人間の脳は、ルールを破ったもの(悪)に罰を与えることへ快感を覚えるようになった。進化上、人間の脳の構造はそのようになっている。」というもの。

つまり人は、悪人に石を投げるのがこの上なく快感なのだ。SNSが普及する前は、法の裁きに任せるしかなかったが、SNS普及後、不特定多数が悪人に対して石を投げられるようになった。これが堪らなく気持ちいい。だからみんな止められない。

本来、関係者であれ、無関係者であれ、私刑をするのは法治国家として許されない。詳しくはこちらのエントリーで書いたので参照してほしい。(でも、やめられないんだな)


二つ目は、「承認の娯楽化」である。SNSが普及するようになって、承認欲求が満たされやすくなった。Facebookではリア充自慢。Twitterでは自虐自慢。どちらも承認欲求を満たしていることには変わりない。この承認欲求が満たされる感覚は、これがまた気持ちいいのである。そのため、SNS中毒になる人も多い。なんでも、米カリフォルニア大学の研究チームによると、SNSで付くたくさんいいね!は、脳の中でセックスのことを考える時と同じ部分が刺激されることが分かったそうだ。承認欲求、チョー気持ちいい。

SNSがもたらした二つの娯楽は、時に相乗効果を生む。リアル世界では、マナーの悪い人に注意さえもできない人や承認欲求が満たされない人でも、SNSを使えば、悪人を吊し上げて集団ボッコに加担して承認欲求まで満たされる。あぁなにこれ最高じゃん。もうセックスする必要ないね。


正義と承認の娯楽化は、もう絶えることはない。ゲームやアニメに並ぶ、新しい娯楽になりえるだろう(もうなっている?)。拡張した正義や承認欲求がどのように社会に影響を与えるのか。なんとなく見えているけど、楽しみでもあり、恐怖でもある。

 

えーーん、僕の大好きなゲーム(ポケモンGO)にケチ付けられちゃったよ、むかつく!

10月26日、トラックが小学四年生の男児をはね、死亡させた。運転手は運転中にポケモンGOをしていたと供述。事故を受けて、遺族と愛知県一宮市は、ゲーム運営会社に運転中に起動しないよう要望した。

ネットでは、「ポケモンGOだけ罰するのはおかしい」「飲酒運転して事故ったら、酒造会社は責任を取るのか」「他のアプリはどうなんだ」といった批判が湧いた。

正直、アナロジーとしては下手である。どの例も、ポケモンGOが事故の誘因となる構造とズレているからだ。どうズレているかを解説してもいいが、アナロジー思考が乏しい人に解説するのは骨が折れるのと、それに、それをしたとしても正直あまり意味がないと思う。

仮に、例のアナロジーが適切だったとして、「だから何なの?」と言いたい。適切だったら、「ポケモンGO」の運営会社に運転中に起動しないようを要望してはいけないのか。ズレた行為なのか。企業が可能な限り事故を防げるのであれば、それに越したとはない。

たとえば各自動車メーカーは、事故を未然に防いだり、事故時の衝撃を極力減らせるよう研究開発に日々努めている。可能な限り事故を防げるよう努めることは企業の責務であり、また、遺族や関係者が要望を出すことぐらい、特におかしな行動ではない。要望してシステムが改善され、事故が1件でも減るのであれば、それにこしたことがないだろう。

にも関わらず、一宮市に要望の取り下げを求める脅迫メールが9通送られてきたという。脅迫メールには、「要請を取り下げろ。おまえらの家族に天罰が下るぞ」「市役所炎上がいいか」と書かれていたそうだ。なんとも幼稚な思考回路である。

要望を出したことへの憤りを覚えている人たちを一言で表せば、「えーーん、僕の大好きなゲームにケチ付けられちゃったよ、むかつく!」であろう。

この感情が起因となっているだけだと思う。知らんけどな。

 

東急電鉄のポスター「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ。」は、おかしなコピーではない。おかしいのは……

東急電鉄のポスターが物議を醸している。
批判の主は、「化粧することの何が迷惑だ」「じゃ、田舎の女はキレイじゃないのか」といったものだ。


私は、広告コピー「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ。」を読んだ時、コピーライターのはしくれとして、色々疑問に思うことがあった。まず、コピーライターとポスター制作は、分業だったのか。完成前にコピーライターの意見を聞かなかったのか、と。

なぜ、こんなことを思うのか。それは、広告コピーとポスターに一貫性が無いからだ。それを解説する前に、まずは広告コピーを分解しなくてはならない。

 

 

広告コピーを分解してみる

「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ。」
私の目から見て、このコピーはそれなりに熟慮されものだと思う。「みっともない」という言葉は、マナーやルールからの言葉ではない。モデルの女性の感受性(品性)から訴えかけている言葉だ。なぜ、そうしたのか。

まず、化粧には程度問題がある。がっつり化粧をする人もいれば、軽く化粧直しする人もいる。また、他の迷惑行為と違い、物理的に他人に迷惑を与えることも少ない。そのため、「化粧はマナー違反」と明確に線引きできないし、万人の賛同も得られにくい。こうした側面を考えれば、マナー違反(迷惑です)を含意したメッセージではなく、感受性の角度から攻めたほうがいいのではないか、と考えたのだろう。だから、「時々、みっともない」としたのだと思う。

次に「都会の女はみんなキレイだ。」である。あえて、カナ字で「キレイ」と書いている。カナ字で“きれい”を使う場合、「清潔感」の意味合いが強くなる。容姿の“きれい”を指すのであれば、平仮名の「きれい」か「綺麗」を使う。反感を買いそうな“きれい”をあえて避けているのが見て取れる。また、清潔感だからこそ、「みっともない」の意味が出てくる。通常、「みっともない」は、小汚い風体や行為に使ったりする言葉だ。

つまり「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ。」は、「都会の女性は、みんな清潔感があるのに、マナー違反とは言えないけど、時々、みっともない(小汚い)ことをするよね」という意味になる。そう推察しながら、私はこのコピーを読んだ。だがしかし。だがしかしである。

 

 

広告コピー以外はお粗末

広告コピーは、熟慮の痕が見られるが、それ以外はお粗末だ。ポスターの中央下には、こんな文字がある。「社内での化粧はご遠慮ください」

私がコピーライターなら、泣いてるね。
あえて、女性を起用して感受性の角度から化粧を慎むようメッセージを発信しているにも関わらず、東急電鉄が直球で「社内での化粧はご遠慮ください」と書いてしまっている。東急電鉄がそれを言ったら、化粧は「マナーやルールですよ」と言っているのと同じである。なんのための広告コピーだったのか。

それだけではない。このポスターは「都会」が前提になっている。違和感を覚えないだろうか。都会の電車が、ポスターのように席がガラ空きになっていることがあるだろうか。

つまり、広告コピーと最後のメッセージ、そして写真に一貫性が無いのだ。もし、「社内での化粧はご遠慮ください」の文字を消して、満員電車で化粧をしている写真であれば、啓発を目的とした広告として、より優れたものになっただろう。

 

伝え方が9割

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伝わっているか?

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名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方 (日経ビジネス文庫)

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露出度の高い服を着た女性が治安の悪い場所を歩いていて襲われたら、どっちが悪いのか

知り合いの女性が男性に騙された。彼女は出会い系サービスを利用し、そこで知り合った男性と付き合うことになった。しかし、後で分かったことだが、男性には妻子がいたのだ。

この話題を、共通の友達(男1:女1)と話をした。そこでの会話が示唆に富んでいたので記しておきたい。

私「出会い系を使えば、まぁ、変な男に会う確率的は高くなるよね。」

男友達「出会い系は、どうしても変な人が必ず紛れてきますからね」

私「出会い系に手を出すんだったら、そのリスクは想定しておかないといけないし、警戒しないといけない」

女友達「でもさそれって、夜道をミニスカートで歩いていて襲われたら、襲った相手ではなく、女が悪いって論理じゃない!」

男友達「いや、良い悪いの話じゃないよ。良い悪いで言ったら、そりゃ、騙したと男や襲った男が100%悪い。そうじゃなくって、そういう場所(危ない場所)に行けば被害に遭うリスクは高くなるよね、という話」

女友達が挙げた例、「露出度の高い服を着た女性が治安の悪い場所を歩いていて襲われたら、どっちが悪いか論」はよく聞く話だ。だがこれは、事象を「良いか悪いか」という一つの評価軸でしか見ていない。男友達は、そこにもう一つの評価軸を入れた。「リスクの高低」である。

女性が襲われたら云々は、「襲われたら当然襲った男が悪い(倫理的にも法的にも)。だが、襲われるリスクの高い行動ではある」という評価(表現)が適切だろう(リスクの高低は状況によって変わる)。二つの評価軸で語ったほうがいい事柄を、無理やり「良い悪い」だけの一つの評価軸で語れば無理が出てしまう。だから、「男が悪い」「女が悪い」といった、どっちかが悪になるといった極端な論争になってしまう。

この会話を聞いて、10年時ほど前、紛争地域に行き人質されたボランティアたちを思い出した。この時も「自己責任論」が飛び交い、無事帰国した人たちに非難の声が浴びせられた。私はこの様相を見て、「なんでそんなに非難されなきゃいけないの?」とモヤモヤした気持ちになった。この違和感を今なら説明できる。

この事象には、先の評価軸二つに、もう一つの評価軸を足す必要がある。それは、「目的意識の有無」である。

「人質問題は、当然、人質を取る人間が悪い。だが、紛争地域に行く行為は危険な行為と言わざるを得ない。だが、彼らには紛争地域で苦しむ人たちの一助になりたいといった目的意識があった」。これが分別した評価だろう。(ちなみに、先の女性が露出の高い服で云々の例は、目的意識が無い前提なので、二つの評価軸だけ)

この3点の評価軸を加味して人質事件を語る必要がある。それを、一つの評価軸「良いか悪いか」だけで無理やり押し込んで論じるから、「自己責任論」つまり「紛争地域に行くお前らが悪い」となってしまう。本当は、そんな単純な話ではないのに。

人は、ほうっておくと「良いか悪いか」の一元的な評価をしてしまう。「良いか悪いか(善悪)」の話になったとき、もっと他の評価軸はないのかと一旦立ち止まって考えてみるのがいいだろう。