「殴られもせずに一人前になったヤツがどこにいるものか!」。体罰の是非について考えてみた。

体罰は是か非か。
学校での体罰が事件にまで発展した際、ニュースなどでこの話題がよく取り上げられる。

私は学生時代、学校側からすると問題児だったと思う。そのため、殴られたり、怒鳴られたりということはよくあった。私自身、「殴られるだけのことをしたのだから、殴られて当然」と思い、その罰をあまんじて受け入れていた。ときには、理不尽に殴られたり叱られたりしたこともあったが、それについては私も反抗はした。が、しかし、先生も一人の人間であるため、常に適切な判断はできない。私は心の隅でそれは致し方ないことと、どこかで許しもしていた。
それに、私のようにできの悪い子は、身体で教えないと分からない面がある。殴られなければ、おそらくもっと多くの悪事をしていただろうし、反省もしなかっただろう。周りの友人を見てもそう思う。

体罰に賛成する人たちは、自身の経験を通じて、体罰をしてくれてよかった、または、自分が大人の立場でもそうする、という考えを持った人だろう。私自身、体罰をした先生を恨んでもいないし、むしろ大人になった今では感謝もしている。

この話のくだりからすると、私は体罰を肯定しているように見えるかも知れないが、実はそうでもない。
私個人観では体罰は受け入れている。しかし今の社会全体、ひいては、今の子供たちの大多数には受け入れられないだろうと思っている。よって、今の子供たちには体罰はするべきではない。というのが私の意見だ。

もう少し説明を入れよう。
私はもうすぐ30歳になる。私より一回りも二回りも年上の人は、おそらく、私の世代が受けた体罰より、過激な体罰を受けているだろうし、その頻度も多かったと思う。

父が話してくれたのだが、父が小学生の時、何やら悪さをして先生に殴られたらしい。それを祖父に話したところ、教師に対して怒るどころか、一升瓶(酒)を持って父と一緒にお礼に行ったそうだ。生徒を殴ってまで指導してくれる教師は尊いという教訓らしい。
さすがに私世代では、殴った教師にお礼をしに行くという話は聞いたことがない。

この話は、私の身近な例ではあるが、他の人と話していても世代によって体罰に対する受け入れ方が違うように感じられる。温度が違えば当然、セーフラインも違ってくる。一昔前はセーフでも、今はアウトという具合に。つまり、一昔、二昔前の世代でセーフだったものでも、今の子供たちからすれば、それはアウトなのである。

喩えて言うなら、50℃の湯に浸かっていた人からすれば、45℃はぬるい。しかし、40℃の湯に浸かっていた人からすれば、45℃の湯は熱い。それと同じである。湯の温度が世代によって違うのだ。

今の子供たちは、殴られるという経験が日常にあまりない。それが、学校に入り、教師に殴られたりすれば、それは火傷に匹敵する熱い体験になる。中には、熱過ぎて学校に行かなくなる子もいるだろう。

私が体罰に関する意見として、「私個人観では体罰は受け入れている。しかし今の社会全体、ひいては、今の子供たちの大多数には受け入れられないだろうと思っている。よって、今の子供たちには体罰はするべきではない。」と書いたのは以上の理由からだ。

機動戦士ガンダムの名シーンの一つ、ブライト艦長がアムロを殴った後に言うセリフ、「殴られもせずに一人前になったヤツがどこにいるものか!」はもう、今の子供たちには響かないのだろう。この名場面はそのうちカットされるかも知れない。サザエさんでカツオが教室の外で立たされるシーンがカットされたように。

時代の移り変わりともに体罰という湯の温度は、徐々に下がりつつある。それが良いか悪いかは分からない。ただ、この時代の流れからすると、おそらく、口頭で叱るのも言葉の暴力と揶揄される日も、そう遠くないのかもしれない。