軽々しく「信じている」なんて言葉を使うな

今回は、『信じる』について話をしたい。
まずその前に、次の質問に答えてほしい。


[質問]
宝くじが当たり、1年後に1億円振り込まれるとしよう。
これは確定事項であり、必ず1年後に1億円振り込まれる。必ずだ。
もし本当にそうなら、振り込まれる前からあなたはすでに1億円所有している気分にならないだろうか?

私なら、なる。10名近く同じ質問をしたが、ほとんどがYESと答えた。

 

 

信じるとは『未定』を『確実』と思うこと

私の母は、誰よりも度胸が据わっている。少なからず、私が知る女性の中で、最も肝が据わっている。
ヤクザのいる事務所に単独で乗り込んだり、暴走族めがけて車で突っ込んだり、犬に利き腕の人差し指を喰い千切られても平然としている、そんな女性だ。

母がどんな危機的状態でも涼しい顔をしていられるのは、とある宗教を信仰している影響だろう。実は私の母は、信者の鏡と言って差し支えないほど、信仰心溢れる信徒だ。母は「この宗教を信仰している人は必ず幸せになる」と信じ切っており、疑う心など微塵も持ち合わせていない。どんな危機的状況でも平然としていられるのは、信仰している自分が死ぬわけがないし、不幸になるはずもないと信じ切っているからなのだ。そして母は、自分は「幸せだ」と言っている。それはそうだろう。幸せになると信じ切っていれば、今この瞬間から幸せになる。
ここで、先ほどの宝くじの話が意味をなしてくる。

「必ず振り込まれる」と約束されていれば、今この瞬間から1億円所有した気分になるのと同じで、「将来、必ず幸せになる」と心底信じていれば、今この瞬間から幸せになるはずだ。だが、普通はここまで信じ切れるものではない。「なれるかもしれない」という未定的なのが常人の感覚だ。しかし、私の母の境地から言えば、それは『信じる』とは言えない。確定だと思えて、初めて『信じる』に値するのだ。
※念のために補足しておくが、私は宗教を勧めているわけではないし、母の狂信的な話をしたいわけでもない。『信じる』について話をしているだけだ。

 

 

信じていれば心配しない

私は起業するとき、師匠に報告をした。その際、師匠から言われた言葉を今でもよく憶えている。
「デュオ(私のニックネーム)がどんなに勉強してどんなに実践してきたか僕は知っているし、今まで接してきてどんな人間かも知っている。だから、僕は君のことを何も心配しない」。これは、私にとって最高の賞賛だった。師匠の言う「心配しない」は、「成功すると信じている」の意なのである。

母も自分の人生に何の迷いも心配もしていない。なぜなら、自分の人生は良くなると信じているからだ。『信じる』は、『心配しない』の意味である。心配したら、“信じていない”状態なのである。

ドラマやアニメの中で「信じている」の台詞がよく使われる。しかし、「信じている」と言った登場人物が相手の心配をしている描写がある。それを見るたび私は、「解かっていないな」と思う。何度も言うが、心配した時点で、信じていないのだ。

 

 

『ライアーゲーム』から学ぶ、“信じる”の意味

私の話を聞いて、『信じる』とはいかに大変なことかと思うだろう。私にとって『信じる』とは、“信じた事柄に対して心配しないこと”と定義している。そのため、おいそれと使える言葉ではない。だが、世の中には、おいそれと使う人も多い。信じるとは極めて高尚で重い言葉であるにも関わらず。

漫画『ライアーゲーム』の主人公、秋山深一が『信じる』について言及した台詞がある。紹介しよう。

「信じる」その行為は紛れもなく高尚な事だ・・・、しかしね、多くの人間が『信じる』の名の下にやってる行為は実は他人を知る事の放棄それは決して『信じる』行為ではなく・・・「無関心」。無関心こそ疑うよりはるかに忌々しい行為である事に多くの人間は気づいていない。多くの人は誤解しているけれど、人を疑うとはつまり、その人間を知ろうとする行為なんだ。」


「信じていたのに裏切られた」。よく耳にする言葉だ。
だが、本当に信じていたのだろうか? 疑うことを放棄して、そうあって欲しいという願望から信じたかっただけではないだろうか。「信じたい」を「信じる」と履き違えてはいけない。
軽々しく「信じる」とは言えなければ、軽々しく「裏切られた」とも言えない。裏切られた際、裏切った行為は相手に非があるだろうが、裏切られたと思うのは、自分の浅はかな思考が招いた結果である。

賛否あるだろうが、今回は、私なりの『信じる』について語ってみた。

 

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