ろくでなし子の逮捕も「自称芸術家」と称するのも正しい

18日、ろくでなし子氏が釈放された。
そもそも、ろくでなし子氏が逮捕・拘留されていた理由は、自身の性器の3Dデータを他人に頒布していたからだ。他人と言っても、彼女の芸術活動の資金を募るクラウドファンディングに寄付した人に限られている。それが今回、わいせつ電磁的記録頒布に該当するとして逮捕に至った。

彼女の芸術活動とは、一言で言えば「女性器をもっと身近にしたい」である。会見時に述べた言葉を引用しよう。

女性器は女にとっては生理・セックス・妊娠・出産と、自分の肉体の一部としてあまりにも身近な物です。それが『わいせつ』という言葉によって、女性の持ち物であるにも関わらず、どこか遠い存在になっている。これはおかしいのではないかというのが、私の根底にはあります。『女性器はありのままでいいじゃないか』という考えが私に作品を作らせています。日本では昔から性器をたてまつる信仰がある一方で、日本独特のわいせつ観が存在します。今回は、日本の性的なイメージに関するゆがみが、私の逮捕というかたちで現れたのだと考えます。

釈放後の今も、彼女は一貫として持論を曲げず、逮捕を不服として無実を訴え続けている。今は、検察が起訴するかどうかの判断を待っている状況である。


これがざっくりとした経緯だ。

今回の事件について、多様な意見がネット上にあがった。
その中でも、検察・マスコミを非難する声が特に数多くあった。それは以下のような意見だ。

ろくでなし子氏の肩書きを「自称・芸術家」と言うのはおかしい。彼女は、何年も前から芸術家を名乗りそれで収入を得ている。れっきとした芸術家である。「自称」を付けるのは、印象操作だ。

だが、私は「自称芸術家」と検察やマスコミが称するのは致し方ないと考えている。理由は3つある。

1つ目は、芸術家の境界線が曖昧。
何を持って芸術なのか芸術家なのか、それを検察やマスコミが決めるわけにはいかない。ろくでなし子は一部では有名かもしれないが、そこまで名の知れた芸術家ではない。そのため、ギリギリ「自称」と称してしまうのは仕方ないだろう。


2つ目は、逮捕するため芸術家と認めるわけにはいかないから。
今回の逮捕は、彼女の創作活動の一部を犯罪として否定する形になる。もし「芸術家」と称してしまえば、今回の一件も芸術活動と認める形になる恐れがあり、逮捕という行為に矛盾が生じる。そのため、「自称」と称しておくのは、検察からすれば適切だと思われる。


3つ目は、「ろくでなし子」という名前である。
常識的に考えれば、芸術家が自分の名前に「ろくでなし」とは命名しない。ふざけた活動をしている人という印象を与えるだろう。何の前知識もない人なら芸術家を語る如何わしい人物と映っても不思議ではない。検察が「自称」を付けたがるのも理解できる。

 

 

逮捕は妥当である

ろくでなし子氏の逮捕は妥当である。私はそう考える。
逮捕理由は、「性器の3Dデータの頒布」であり、その他の創作活動を否定しているわけではない。ここは、多くの人が誤解している。検察は、性器をモチーフにした作品などを逮捕理由にした訳ではない。“性器の3Dデータの配布のみ”が「わいせつ電磁的記録頒布」として該当したのだ。

私が思うに、性器の3Dデータの配布は芸術活動とは呼べない。
たとえば、性器の写真を撮影して「これ、芸術です」と言って配っているのと同じだ。それはいくらなんでも無理がある。

もし、直接的に性器を表わしたものでも「芸術作品」として許してしまえば、同じように性器の写真や3Dデータを売る輩が必ず現れる。そして言い逃れの口実は「これは芸術作品です」となるだろう。

今後争点になるのは、わいせつ電磁的記録頒布の定義である「頒布とは有償・無償を問わず、不特定多数への交付」の不特定多数に該当するかどうかだろう(おそらく該当する)。
ろくでなし子氏としては不服かもしれないが、公の秩序を守るためには致し方ない。

 

 

個と公の狭間で

とはいえ、私はろくでなし子氏の志は高く買っている。
数年にわたり創作活動してきたこと、検察と争っても考えを一切変えようとしない気骨あるその姿勢には大いに敬服する。個人的には、「女性器をもっと身近に」という思想には一理あると考えてもいる。だが、個の主張のすべてを公(社会)が許すわけにはいかない。もし、彼女の主張を公が受け入れれば、公然と性器を露出していても罪に問われないことになる。

人の数だけ考えがある。ろくでなし子氏のような考え方もあれば、性器を見たくない人だっている。法は、国の文化・常識・利害などを考慮して整備されなければならない。今の日本で、彼女が主張する「女性器をもっと身近に」を公に認めさせようとするのは、至極難しいだろう。

 

 

性器は芸術になりえるのか?

性器を扱った芸術は、ギリギリ芸術になりえると考えている。ただ、芸術の中でも「下」に位置する。
お笑いの世界には「下ネタ」という用語がある。下半身をネタにした芸は、誰でも簡単に笑いが取れる。そのため、下ネタは芸の中でも「下」に位置する。下品、下ネタの「下」は下半身だけを指すのではなく、格付けにおいても下を意味しているのだ。

芸術も同様だ。性器などはインパクトがあり、人目を引く。忌憚なく言えば、性器は誰が扱っても注目を集めることができる。つまり、芸術としては程度が低いのだ。もし今後も芸術として性器を扱うのであれば、ろくでなし子氏は下の芸術家として甘んじなければならないだろう。

 

 

まとめ

下の芸術活動であるというのは、本人も自覚があるのではないだろうか。「ろくでなし子」という名にそれが表れている。
表現の自由が許されているから、何でも許されるわけではない。表現は公に認められるものでなければならない。そうでないものは、公から淘汰されゆくものなのだ。