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アイスバケツに嫌悪感を覚える人たちへ

社会

アイスバケツが今流行っているそうだ。
恥ずかしながら、私がこの話題について詳しく知ったのは2日前。ネットニュースやFacebookで「アイスバケツ」の単語を度々見かけてはいたが、一体何のことだかよく分からなかった。偶然、詳しく解説してあるサイトを読み、ようやく全体像を把握した。

さて、この話題で私が一番関心を持ったのは、この取り組みに「嫌悪感」を抱いている人が多くいることだ。
アイスバケツの流行りに乗っかっている人のほとんどは、芸能人や有名起業家ばかり。彼らがパフォーマンス的に氷水を被る姿が、「売名行為」や「悪ふざけ」に映り、嫌悪感を抱いてしまうのだ。


わかる。


よく分かるよ、その気持ち。


おそらく、アイスバケツを被った著名人らは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)に関して、大して関心はないだろう。お察しの通り、売名行為や悪ふざけでアイスバケツを興じているにすぎない。嫌悪感を抱く人の気持ちはよく理解できる。

だが

だからと言って、私はアイスバケツというアイディアを否定するつもりはない。彼らの動機は確かに不純かもしれない。だが、行為は不純ではない。
このことについて、もう少し掘り下げて話したい。

 

 

行為と動機は分けて考える

アイスバケツ問題を、私は2つの視点で分けている。
それは、行為と動機である。

今回のアイスバケツ問題で言えば、

行為・・・寄付をするor氷水を被るorその両方
動機・・・売名目的や悪ふざけ


寄付をしたり寄付が集まるのは、ALSの人たちにとって大いに役立つはず。寄付金は20日で42億円ほど集まり、前年と比べると20倍ほど集まっているそうだ。これは凄いことだ。“多額の寄付を集めたアイディア”として、発案者は大いに称賛されるべきである。

さて、次が問題だ。動機である。
先ほども述べたように、アイスバケツに乗っかって寄付している人の多くは、純粋な善意ではないだろう。目立てる、イメージアップに繋がる、面白そうだからなどの利己的な動機が主である。

しかし、動機が不純だからと言って、行為までもが不純になるのかと言うと、私はそうは考えない。動機が不純であろうと寄付は寄付だ。それはそれ、これはこれと分けて考えている。

今回のアイスバケツに嫌悪感を抱いている人(私も含む)は、「寄付という行為は認める。だが、お前らの動機は認めない」と思うのが、気持ちの落とし所の一つではないだろうか。

 

 

愛も善意も、悲しいほど世界を救わない

世界にはいくつもの募金団体がある。日本では、ユニセフが有名だろう。
これらの団体に募金したとしよう。だが、その募金の何割かは人件費や募金活動事業費などに使われ、お金を必要としている人たちに募金のすべてが亘るわけではない。募金団体にも人件費はかかっている。現実は善意だけ(無償)で募金集めに協力してくれる人なんて稀だ。ましてや善意だけで組織を運営するなど到底不可能なのだ。

毎年放映される「24時間テレビ」もそうだ。
善意による募金を呼びかける番組だが、出演する芸能人には出演料が支払われている。無償による番組出演を依頼すれば、事務所からことごとく断られ、番組は成立しないだろう。それだけ、善意による無償の労働は成り立たないのだ。

人の善意は微力だ。善意に任せた寄付や募金活動ではお金は集まらない。
ALSの寄付もそうだ。善意に任せた寄付だけでは年間2億円程度しか集まらなかった。それが不純な動機を取り入れ、寄付を促した結果、20日間で42億円もの寄付が集まったのだ。

人間は欲深い生き物だ。自分をよく見せたい、目立ちたいという願望を常に抱いている。これらの欲の度量に比べれば善意など取るに足らない。

私が思うに、善意でお金を集めるよりも、私利私欲を狡猾に利用してお金を集めるほうが世界は救える。断言しよう。愛も善意も世界を救わない。私利私欲が世界を救う。要は、欲のはけ口をどこに向かわせるかだ。世界を救いたければ、「汚く稼いで綺麗に使う」。そう考えればいい。世界を滅ぼすのも救うのも、結局は人間の私利私欲なのだ。

 

 

もう一つの落とし所

アイスバケツに乗っかている著名人らに対して、嫌悪感を抱いている人たちは、彼らの浅ましい姿をこのように見下ろせばいい。「欲深き人間たちよ。その欲で世界を救いなさい」と。これも、気持ちの落とし所の一つである。

 

トピック「アイスバケツ」について