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「好き/嫌い」と「向き/不向き」は、必ずしもイコールにならない

考えてみた

昨日まで私は、自身を内向的な人間だと認識していた。
だが、今は考えを改めて、外交的な人間だと認識している。

きっかけは些細なことだ。ある性格分析を試みたところ、外交的と診断されたからだ。実は過去にも、占いや心理分析などの自己分析をいくつか試した経験がある。そのたび、「外交的(社交的)」と診断されてきた。また、周囲からも「外交的だね」と評価されることが多かった。私は、それらの診断結果や評価を受けるたび、首を傾げた。なぜなら、自分では内向的だと思っていたからだ。

今でも、内向的な生活や行動は好きだ。
今もこうして一人黙々とコンテンツを作っているし、仕事もクライアントに直接会わず、メールと電話のみで完結させている。できるだけ人と会わずに仕事を行えるように意図的に仕組み化している。一人で仕事をしているからという理由もあるが、そのほうがストレスがなくて好きだからだ。

休日の過ごし方も内向的である。
読書にふけるか、動画を見て過ごすかだ。外に遊びに出掛けても、ほとんど一人で過ごしている。お酒も一人で静かに飲むのが好きだ。

こうした行動を鑑みるに、「どう考えても自分は内向的だろう」とばかり思っていた。だが、冒頭に書いた通り、今は違う。私は外交的な人間だったのだ。

私は人と交わるのは、「好き」ではない。だが、持って生まれた資質は外交的だったのだ。

 

 

「向いている」から「嫌い」になる

人と会うのはあまり好きではない。特に知らない人であればなおさらだ。
パーティーに参加しても、誰にも声をかけられず、そそくさと退席してしまうことさえある。だが、知り合いになり、話す機会に恵まれれば、意外と人に好かれる。「話が面白い」「変わった性格している」などと評価され、人からもよく好まれる。

思い出してみれば、私が友達の数が人一倍多かった。
小学生のときは、休日になると必ずと言っていいほど友達が遊びに来た。3人、5人は当たり前。多いときは15人を超える日もあった。全員と遊ぶのに骨が折れたのをよく覚えている。

中学校に上がってからも、友達の輪は広かった。
不良やオタク、成績優秀な子とも仲が良く、毎日どこかのグループが家に遊びに来ていた。この事実を鑑みると、私は外交的と言える。

ではなぜ、私は自分を内向的だと思うようになったのか。
自己分析をした結果、以下のような理路に至った。
[友達が多い⇒大勢遊びに来る⇒疲れる⇒嫌い⇒一人で遊ぶ⇒ラク⇒好き]

持って生まれた資質が対人関係とのストレスを肥大化させ、内向的な行動へと走らせていたのだ。そして、自分は内向的な人間だと認識するように至った。元を辿ると私は元来、外交的な人間だったのである。

 

 

「好き/嫌い」と「向き/不向き」は分ける

今回の一件で学んだことは、「好き/嫌い」と「向き/不向き」は、必ずしもイコールにならないということだ。

「好き/嫌い」は、その人の嗜好や経験から紐付く感情であり、持って生まれた性格や資質とは関係ない。しかし、「向き/不向き」は、持って生まれた性格や資質が大きく関係する。

改めて考えてみたら、私の性格と資質は外交的であった。しかし、経験から内向的な行動を選択するようになっていたのだ。
「自分は○○が好きだから、○○が向いている」の理路は、一旦落ち着いて考え直したほうがいい。私の例のように、何かしらの経験を経たため、自己認識を歪曲させているかもしれない。また、「好き/嫌い」と「向き/不向き」は、そもそもベクトルが違うため分けて考えたほうがいい。

もし、あなたが何かしらの性格分析を受け、その結果に疑問を覚えたのなら、一度、過去を振り返ってみてほしい。まだ、人生経験の浅い年齢は、持って生まれた性格や資質が表面化しやすい。歳を重ねるごとに、経験が性格を埋めていくため、判断が難しくなる。昔と今と比べて、好みや行動が異なるのは、おそらく「経験」によるものだろう。
人は、自分の都合のよいほう、ラクなほうへと答えを導いてしまう癖がある。おそらく、自己認識もそうなのだろう。

 

 

まとめ

「好き/嫌い」と「向き/不向き」は分けて考える。
参考になるのは、子供の頃の記憶。昔と今との差異は、経験が関係しているかもしれない。そして、自分の認識よりも、客観的な分析や意見のほうが正しい。人の意見に耳を傾けよう。