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自殺や他殺の是非を俎上に載せてはいけない

考えてみた

私は論理的に物事を考えたり、論を交わしたりするのが好きだ。そんな私でも、唯一、俎上に載せない題材がある。それは、「自殺や他殺の是非」である。これは、頑なに守るようにしている。
私は、どんな理由があれ、自殺すること他殺することを正当化してはいけないと考えている。

この考えに至った背景が二つある。
一つはディベートを勉強したときだ。書籍を読んでいたら、「命を絶つことをディベートさせてはいけない」との記述があった。論理力があれば、理屈をこねくり回して、どんな行為でも正当化できるからだそうだ。自殺、他殺、大量虐殺でさえも正当化できてしまう。

もう一つは、仏教の造詣が深い外国人と話したときだ。
彼の国では、学校で仏教を教えるぐらい、全国民が仏教に精通している。彼曰く、「どんな背景があろうが、生まれてくる命は祝福される」と言っていた。祝福しない人間は人間ではないと。また、宿った命を絶つ奴も人間ではないと。これも、議論する余地がないという感じだった。


この二つの話は、とても通じるものがある。
ある所で明確な境界線を引いている。これは議論してはいけないという線を。

前述したように、人は理屈をこねれば、どんなことでさえ正当化できてしまう。その証拠に、未だに愚かな戦争が絶えず行われている。

ある意味、人は頭が良くなり過ぎたのだ。ただ、その頭の良さを制御することができないでいる。制御とは、倫理的に踏み超えてはいけない線を引くことであり、その線より向こう側を決して侵さないことだ。

科学も近い将来、命を弄ぶ禁忌に触れるのだろう、いや、もう触れているのかもしれない。禁忌の触れ方はきっと、医療の発展のためなどという、もっともな理屈をこねてくるのだろう。

境界線を引かずに(制御せずに)、発達し過ぎた頭を使うのは、頭が良いようで、頭が悪い。制御できるというのも、一つの頭の良さなのだ。禁忌を犯した論理も理屈も、頭の悪い行為以外の何物でもない。

どこで線を引くかは、国や文化によって異なるかもしれないが、明確な線引は必要だ。とりあえず私は、「自殺や他殺の是非」を俎上に載せない。それが、私なりの線引きであり、私なりの制御なのだ。