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人を排他する人が出ていけば問題はなくなる

考えてみた

小学3年生か4年生だった頃の話。
A君が日曜に私の家に遊びに行きたいと言ってきた。「いいよ。遊ぼう」と快諾した。
翌日、B君も日曜日に私の家に遊びに行きたいと言ってきた。私は「A君も来るよ」と伝えた。するとB君は「A君は嫌い。A君の約束を断って」とお願いしてきたのだ。

正直困った。
当時の私は、A君とB君なら、B君とのほうが親しい。それにB君はとても喧嘩が強かった。

私は一日中悩んだ。
悩んだ末、A君に一つ確認をした。「日曜日、B君が来ても一緒に遊べる?」と。A君は少し困った顔をしたが、「うん」と答えた。それからB君のところに行き、こう伝えた。「仲良くできないほうが来ないで」と。B君は一瞬驚いた顔をした。少し間を置き「わかったよ。じゃ、A君と一緒に遊ぶよ」と答えた。

日曜日、どう遊んだのかまったく覚えていない。だが、この一連のやり取りだけはよく覚えている。
自分自身、自分が出した答えに驚いた。自分は、こういう風に判断する人間だったのか、と。

これは今でも根付いていて、何かのコミュニティが形成されたとき、「○○さんのこと好きじゃないから入れないで」と言われると、「じゃ、お前が出ていけ」って思ってしまう。場合によっては口に出してしまう。それでコミュニティが崩壊するなら、崩壊すればいい。

自分の考えが正しいとは思わない。「嫌いな人を入れたくない」という気持ちも考えも理解できる。それはそれで正しい選択だと思う。

ただ私の価値観(判断基準)は、「気が合う人だけでいいよね。分かる人だけ楽しめればいいよね」みたいな排他的な輪がどうも好きになれない。何より、気の合わない人を排他するのが解せないのだ。もしそれをしたならば、私はその輪が楽しめなくなってしまう。

これは、いじめ論理にも繋がるかもしれない。
いじめっ子は、「キモイから。ムカつくから」という理由で人をいじめる。もしかしたら、いじめっ子が言うように、いじめられっ子は、キモくて、ムカつくのかもしれない。なら、自分が出ていけばいい。近づかなければいい。

排他精神がいじめを生む。ならば、排他する人が出ていくルールを教育上教えれば、いじめはだいぶ解消するのではないだろうか。

嫌だと思った人が出ていく。
シンプルなルールであり、おそらく、一番争いがくなるのではないだろうか。