「絶歌問題」と「憲法9条の解釈問題」は、同じ問題だった

出版社、著者(元少年A)は、絶歌の出版について世間からバッシングされている。主な理由は、遺族に許可なく出版したから。遺族に許可なく出版したのは、拒否されることが分かり切っていたためと推測。筋を通していない出版社の言い分の「出版には意義がある」は通らない。意義があるなら遺族をまず説得すべき。避けた時点で、邪推されてしまうのは当たり前。

著者(元少年A)は、遺族の気持ちを踏みにじったと批判されている。当然、許されることではない。また、金儲けのために出版したとも批判されている。その可能性は高い。その姿勢も批判されて当然。だが、著者を儲けさせるかどうかは読者次第である。買うか買わないかを決めているのは各々の消費者だから。出版したことは非難される行為だが、儲けたこと自体は批判されることではない。むしろ買った読者が批判される対象になる。

 

 

ビジネス関係との類推

武蔵野の小山昇社長は、「売れるものがいい商品」と言っていた。その論理からいうと『絶歌』はいい商品になる。社会が必要とした商品。つまり、出版社の言い分「出版には意義がある」は論理が通る。「沢山の人が買った=沢山の人が欲した」になるからだ。堀江 貴文氏も与沢翼氏も「稼ぐが勝ち」と言っていた。その結果論の論理からすると『絶歌』の著者は、勝ち組に属するかもしれない。←今後の出版部数次第。
※プロセスからの論理と、結果からの論理では、同じ答えにならない。

 

 

政治との類推

安倍総理がしている憲法9条の無理強いな解釈(集団的自衛権は合憲)は、出版社と似ている。正しい手順(憲法改正)の道を選ぶと、負けるのが目に見えているため、その道には行きたくない。正しいプロセスを経て是非を決めるのではなく、「する」と決めてプロセスを選んでいる。その点は、出版社と同じと言える。中小企業の経営者だったらトップダウンで正しいやり方だったかも知れない。だが、政治はそうはいかない。もしかしたら、企業のリーダーと政治のリーダーは、求められる資質が違うのかもしれない。また、集団的自衛権の必要性ばかり訴えているあたりも、出版社と似ている。適切なプロセスを踏まない人は、必要性を訴えるのが常套手段(てか、それしか言えない)なのかもしれない。

 

 

私見

自分は昔「得たい結果が出るやり方が、正しいやり方」と考えていた。結果論主義者だった。だけど今は、正しくない工程(プロセス)を得て出てきた結果は、倫理や道徳を伴わない結果になりやすいと帰結した。どちらかというとプロセス主義になった。たとえるなら、大量の農薬や化学肥料、または遺伝子組み換えをしすれば、たわわに実った食物ができるだろう。だが、生態系のバランスは崩していないか、他の動植への影響はどうだ。それは本当に安全なのか。と思いつつも、毎日それらの食物を食べている。こういった矛盾・不条理・ジレンマ・不一致が毎日生活に溶け込んでいる。

『絶歌』が売れているのは事実。売れない商品に価値はないのも事実。稼いだ人が偉いという風潮があるのも事実。他国の脅威があるのも事実。不自然な農法で作られた食物の恩恵にあずかっているのも事実。

私の偏見かも知れないが、結果論者は、正しく、そして強い。プロセス論者は、善心だが、弱い。

 

以上。