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社会活動家を見ては尊敬の念を抱き、僕は寄付で自分を慰める

私には、尊敬している人がいる。
一人目は、「夜回り先生」で有名な水谷修先生。20年も前から繁華街をパトロールして少年少女を非行や自殺、薬物から救済してきた。教師の鏡と言うべき人だ。

二人目は、貧困問題に取り組む湯浅誠氏。反貧困ネットワークを立ち上げ、貧困にあえぐ人たちに寄り添い、生活保護受給の支援や就職の支援などに尽力している。

最後は、NPO法人フローレンスの代表 駒崎弘樹氏。空き住戸を使った「おうち保育園」を展開して、待機児童問題の解決に助力している。最近では、赤ちゃんを虐待死から救う「赤ちゃん縁組事業」を立ち上げた。

こうして見ると、私が尊敬する人には共通点がある。自身の時間と肉体を使い、社会問題に向き合っている点だ。私は、彼らを心から尊敬する。そして同時に、自分を恥じてしまう。

 

 

「お前、見たよね、知ったよね。で、どうするの?」

昨年(2015年)の12月15日、私は「赤ちゃん縁組事業」へのクラウドファンディングを募るツイートを目にした。リンク先を見てみると、今、日本で起きている虐待死の現状と虐待死を無くすための取り組み「赤ちゃん縁組」の説明が書かれていた。私はそれを見て、「あーーーっ!」と叫んだ。「やられた!」と思ったからだ。

別に私は、同様の事業構想を練っていた訳ではない。にも関わらず、なぜ「やられた!」などと思ったのか。それは、今まで自分が現実から目を背けてきたことをまざまざと見せつけられたからだ。

ニュースなどで時々流れてくる赤ちゃんの虐待死。私はそれらのニュースを見ては悲憤に駆られる。親にすがることしかできない赤ちゃんを虐待するなんて。赤ちゃんは一体どんな気持ちだったんだろうか。辛かったろう、寂しかっただろう。こんな親は人間じゃない、と。

しかし、そんな悲憤も一時的。次第に薄れて、そして忘れていく。いや、忘れようとしている。なぜなら、自分では解決できない大きな問題だと思っていたから、思うようにしていたからだ。

赤ちゃんの虐待死だけではない。弱者が虐げられる社会問題を見ては、自分にはどうしようもない問題だと見て見ぬふりをしてきた。社会問題を目にするたび、私はいつも神様にこう問われている。「お前、見たよね、知ったよね。で、どうするの?」。その問いへの答えはいつも決まって、目を瞑り、耳を塞ぐことだった。

「赤ちゃん縁組」のツイートを見たとき、「やられた!」と思ったのは、神様からこう言われたからだ。「お前も同じように、“動き出す”チャンスはあっただろうに。同じ現実を見ていただろうに」。自分の愚かさや弱さを直視した瞬間だった。

先に挙げた、尊敬する3名はきっと、神様からの質問「お前、見たよね、知ったよね。で、どうするの?」から目を背けず、真剣に向き合い、そして自ら答えを出した者たちだ。本当に心から尊敬する。

 

 

寄付で自分を慰める

少額ながら、先の「赤ちゃん縁組」へ寄付をした。本当は「○○へ寄付をした」と言うのは、無粋なことだと思っている。しかし、FBなどで寄付を呼び掛ける際、「自分もしました」と言わないとどうも説得力がない。周知するときだけは言うようにしている。それに、自身の寄付を善行だとは微塵も思ってもいない。先述したように、私は神様からの問いに逃げてきた。情けないことに、今も逃げている。その慰めや罪滅ぼしの意味合いもあって私は寄付をしている。だから、寄付したことを称賛されると自分がどんどん偽善者になる感覚がして嫌になる。

他の人がどんな感覚で寄付をしているのかは知らないが、私は少なからず「逃げてました、ごめんなさい。そして今も、自分の時間や身体を使って助けることができません。これで勘弁してください」といった意味でしかなく、それ以上もそれ以下でもない。それでも多少は心を慰められる。何もしないよりはいいだろうと。

そんな自分を俯瞰して見つめている自分はこう言う。「こいつ、お金を払って満足(逃げ切った)しているぞ。本当にゲスだな」。こんな記事を書くことも無骨な行為だと知っていて、心情を吐露している。

ただただ、恥の多い人生です。