昔と今の「子育て」から考える、苦労の基準

作家の百田尚樹さんが以下のツイートしていた。

 

この認識は正しい。 そして若干間違ってもいる。今回はこのツイートを端緒に、人の持つ「基準」について私見を述べたい。

話は少し逸れるが、
私は戦国時代や幕末時代のドラマを見るたび、この時代を生き抜いた人たちの胆力に毎回驚かされる。電子機器もなければ、車や電車といった移動手段もない。しかし日本中を駆け巡り、時代を変えていったのだ。「あの時代の人たちはすごいな」といった 所感を抱いたのは、私だけではないはず。もっと近い時代を言えば、戦時中の方々を見ても同じように思う。彼らの生き様や残していった手記を見るたび、本当に立派だな思い、感服する。

では、彼らと今の私たちとでは DNA が違うのだろうか。いいや、そんなことない。違うのは環境だ。

私は環境が人を作ると思っている。もう少し具体的に言うと、 環境が「基準」を作ると思っている。電子機器や電車がない生活が当たり前であれば、それが「基準」になる。昔の人間と今の人間ではこの「基準」が違うのだ。

もう少し身近な例を挙げてみましょう。
あなたは、「勉強をした」と思う勉強時間はどれぐらいだろうか?

私は底辺校から一流大学出身の友達まで幅広い交友を持っているため、この「勉強をした」という感覚が出身校によって違うことを知っている。底辺校の子は、家で30分でも勉強したら「俺、今日すげー勉強した」と言う。一流大学の子は、家での勉強時間は4時間以上が当たり前だ。休日には12時間以上勉強する。

これは、育ってきた環境や関わっている人たちの影響である(もちろん本人の努力もあるが)。30分なら30分、12時間なら12時間の勉強が当たり前になるような環境に身を置いていたから、それが当たり前になったのだ。同じように、電化製品が普及すれば、電化製品がある生活が当たり前になる。保育所が普及すれば、子供を預けることが当たり前になる。そして、それがその時代を生きる人の「基準」となるのだ。

80歳以上の方々は、子供4人以上を産むのが当たり前だった。子供を背負って抱っこして、井戸から水を汲み、薪からお風呂を焚いた。もちろん、近所の人が子育てを助けてくれたといった地域による一助はあっただろうが、それらを差し引いても、昔の人たちの子育て環境は今ほどではない。テレビで映される「子育てに苦労するお母さん」を見て、老婆たちは鼻で笑っている。実際笑っているのを私は見た。

だからといって、現代のお母さんたちが抱える苦労が嘘かというと、そんなことはない。本当に苦悩を感じているのだ。ただ生きてきた時代による「基準」が違うため、苦労に対する上限が異なるのだ。

これからも益々便利になり、それが当たり前になり、人々は易きに流れていくことだろう。そのうち、「子供を産むことすら面倒くさい」という時代がくる。というか、もうきている。

基本、時代による基準は下がることはあっても上がることはない。易きに流れる一方である。私たちはもう、パソコンやスマホのない生活なんて考えられない。ネットや電話回線のない生活なんて想像もできない。このように、一昔前まではなかったものが現れ、それが“ある”のが当たり前になれば、戻れることなんてできないのだ。次第に、今までは苦労と感じなかったものを苦労と感じるようになり、さらなる便利さを求めて、尽きぬことのない易きへと流れていく。

この記事を読んでいるあなたもきっと、30年後50年後に若い世代を見て、「そんなもの苦労のうちに入らないよ」などと言い、いかんなく老害ぶりを発揮することになるだろう。

 

 

困難な成熟

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勝間式 超ロジカル家事

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