人それぞれが持つ幸せの物差し

あるWEBサイトに、女性から人生相談が寄せられていた。
相談内容を要約すると、「学生時代、仲の良いA子がいた。A子は私より家柄も成績も良く、私が勝っていたのは容姿だけだった。社会人になってからは連絡を取ることもなく、私は結婚して家庭を持った。数年後、同窓会でA子と会った。A子も結婚していた。A子の旦那は一流企業の役員。私よりも裕福な生活をしている。それを知った時、どうしようもなく自分が不幸に思えてきた。どうしたらいいのだろう」。

この人生相談には、数多くのコメントが寄せられていた。といっても、そのほとんどは辛辣な批判だ。しかし、私は彼女の相談内容を読んで、とても素直に心情を吐露しているなぁと感じた。同情することはあっても、批判する気にはなれない。
彼女は、素直に自分の物差しを打ち明けたのだ。そして、その物差しによって不幸になっている。
実は、この物差しは誰もが持っている。

 

 

彼女の物差し

相談者は、自分とA子をこのように考えていたのだろう。
「女はしょせん顔よ。今(学生時代)あなたの家が裕福だとしても、将来いい男を掴めるかどうかは顔で決まるのよ。いつか私は、あなたよりも裕福になれるはずだわ」と。この優越感があったからこそ、相談者は学生時代、A子に対して劣等感を抱くことなく友達関係が築けたのだ。それが彼女の幸福感を支えていた。しかし、現実はA子よりも裕福になっていない。相談者は、自分の持っていた物差しで自分自身を不幸にしてしまったのだ。

 

 

人は人と比べたがるもの

「人と比べていけない」はよく耳にする言葉だ。
私はその言葉に懐疑的だ。人は、自分と誰かを比べずにはいられないからだ。「人と比べるな」は、「呼吸するな」と等しいぐらい無理な話だと私は思っている。

ただ、“何を比べるか”は人によって違う。
「収入」「地位」「名誉」「評価」「容姿」「身長」「性格」「家柄」「学力」「家族との仲の良さ」「友達の多さ」「遊べる時間」など様々だ。人は複数の物差しを持ち、自分が人並み以上かどうかを測っている。それが人並み以上、または特定の誰か(ライバル)以上であれば安堵し、幸福感を覚えるのだ。私はそれを「幸せの物差し」と呼ぶ。(今、命名した)
どんな物差しをいくつ持つのかは、人によって違う。だが、この総合点によって人の幸福度は左右される。

 

 

人は皆、過去の自分とも比べている

先ほどまでは、“人は皆、幸せの物差しによって自分と他人と比べている”という話をした。実はもう一つ、比べる対象がある。それは過去の自分だ。

分かりやすくするために、幸せの物差しを「収入」にしてみよう。
もし、5年前の年収が1000万円あったとして、今は年収が500万円しかなかった。この人はほぼ間違いなく5年前よりも幸福度は低くなっているはずだ。
「年収で幸福度は左右されないよ。私はそうだった」という人が中にはいるかも知れない。その人は、幸せの物差しが「収入」でないだけだ。

人間は、何でも比較して評価したがる生き物だ。
食べログやAmazonなどで、星印を付けて評価するのも、サービスの質や価格を比べたがるのも人の性である。自分と自分、自分と他人、他人と他人、何でも比較し評価する。それが人なのである。

 

 

まとめ

人の幸福度は、「幸せの物差し」によって左右される。
物差し自体を否定しても意味がない。「持つな」と言っても意味がない。なぜなら、生涯手放すことができないからだ。唯一できるのは、物差し自体を持ち替えることぐらいである。
物差しを手放そうとするよりも、幸せを与える「幸せの物差し」に持ち替えるほうが、ずっと自然で健全なあり方なのだと私は思う。