やっぱり私は同性婚に反対します

元々私は、同性カップルにも同性婚にも賛成だ。しかし最近、もっと広い知見でもこの問題を捉えたほうがいいのではないかと考えるようになった。今ではどちらかというと反対の立場にいる。そのきっかけになったのは、2015年10月5日放送のハートネットtv『会えるはずなかった 私の子どもへ』だ。

番組では、数年後にはIPS細胞を使って同性間でも子どもが作れるようになると伝えていた。そして、その事実を知った同性カップルが、自分たちの子どもを作るかどうかを葛藤する姿が映し出されていた。私はこの番組を見て「科学と倫理の問題を象徴するかのような話だ」との所感を持った。

番組内で、京都大学iPS細胞研究所の八代准教授はこう述べていた。

僕はきちんと安全性とかを担保するようなことの積み重ねの果てにであれば、同性間であろうが、iPS細胞からであろうが、ES細胞からであろうが、生殖細胞を作っていいはずだと思っているし、同性間が持つことに対しての違和感は、僕はあまりないんですよね。


一方、生命誕生を研究している河野教授はこう述べていた。

命って技術でできるからつくるんだっていう短絡的なものではないはず。それは、ダメなものはダメ、シンプル。不妊治療といのは、あくまでそのひとの持っているポテンシャルに欠陥がある場合に、補う。卵巣の機能がおちている、精子の機能がおちている。それを補うのが、医療なんですよ。生殖補助医療。でも、いまのは、もともと医療じゃないんですよ。たとえば、レズビアンの方で(子どもが)ほしい。そのひとたち、機能不全ではないんですよ。命なんかすぐできる。っていうことにもし、みなさんなっていったら、本当にそれで幸せな社会が来るのかどうか。

教授コメントのソース元:ハートネットTV:ブレイクスルー File.39 会えるはずなかった 私の子どもへ - 2015年10月5日の番組まるごとテキスト - NHK福祉ポータル ハートネット

 

私は、後者の意見に賛成だ。どんな理由であれ、命の創作は人が犯してはいけない領域であり、禁忌であると考える。しかし、時代の流れを見るに早晩「同性者の間に科学技術を使って子どもを作ってもいいのでは」という意見に流れるだろう。そして必ず、これを許す国も出てくるはず。そうなったら、同性者はその国に行き、子供を作るようになる。そうなったら、人の「願」や「欲」は、次はどこへ向かうのか、どこへ行きつくのか……。


杞憂であればいいのだが、亡くなった子どもを作りたいと人は願いはじめるのではないだろうか。同性間の子どもが許されるのなら、若くして亡くなった子どもと同じDNAを持つ子どもを作ってもいいのではないかと。子どもでなくても、何かの理由をつけて命を創作したり再生したりしないだろうか。このままでは人は、いつしか倫理に背き、「感情」に任せて命を作るのではないか。そんな危惧がある。

私も同性恋愛や同性婚には、賛成したい。だが、こうした科学進歩と人間の欲なども合わせて考えたとき、もしかしたら……と、一抹の不安がよぎる。もし、命の再生や創作が許されたとき、人間の倫理観は完全に崩壊するだろう。それは越えてはならない一線だと私は思う。どんな犠牲を払ってでも。

ガンジーが唱えた「七つの社会的罪」の一つに、「人間性なき科学」がある。生命に触れることは、まさにそれではないだろうか。

 

追記(12月30日15時ごろ)

Twitter上で本記事への賛否があった。その中で、いくつか誤解している点が見受けられたので、追記しておきたい。

まず前提として私は、同性愛を認めている。また、“同性婚のみ”だけで考えれば、これも賛成だ。ただし、今回記事に書いたように、同性婚の認可がIPS細胞を使った子どもの創作に繋がるのではないかという危惧を持ち、反対の立場を取り、論じた。もちろんこの論(同性婚の認可⇒同性間での子ども創作の認可⇒亡くなった子どもの再生)は、推測なのは重々承知している。そのため「杞憂であればいいのだが」と一言添えている。もしそうはならないというのであれば、諸手を挙げて同性婚に賛成しよう。

批判の一つに、「性機能が低下した人や性機能の障害を持った人の結婚も認めないのか」がある。記事中に河野教授のコメントを引用したように、機能の低下、損傷を補うのは医療であり、私はそれを認めている。また、「人工授精や体外受精も認めないのか」との批判もあった。それも私は認めている。どちらも、哺乳類における生命誕生の大原則「男性の精子と女性の卵子の受精」が成り立っているからだ。だが、IPS細胞を使った同性間から子どもを作る医療は、この大原則から外れている。それは、人が踏み込んではいけない領域だと私は考えている。

人は弱い。同性間でも子どもが作れる技術があると分かれば、きっとそれにすがり、使うだろう。「同性でも子どもが欲しい」と願う気持ちを否定する気は一切ない。ただ、やはりそれは踏み越えてはいけない行為なのだと思う。