貧困問題と自己責任論

貧困問題を扱えば、必ず「自己責任論」が付いてくる。「貧困になったのは当人の努力不足だろ」と、まぁ単純明快な論理だ。確かに、怠惰な生活を送り貧困層になった人も一定数はいるだろう。だが、すべてがそうだと言うわけではない。障害者だったり、病気になったり、親の貧困が影響して進学できず就職できなかったりと、本人の意思とは別の影響により貧困になる人も大勢いる。誰だって貧困なんかになりたくない。極力避けるように生きているはずだ。

状況によっては「自己責任論」は正しい面もある。だが、こと貧困問題において自己責任論を持ち出さないほうがいい。これから理由をいくつか述べていくが、最も大きな理由は、貧困問題における「自己責任論」は、弱者切り捨て論理だからだ。つまり、「社会のお荷物になったお前らなんか知らない」という態度が裏にある。その意図が無かったとしても、結果としてそうなる。

 

 

社会ってそもそも何?

ここで一旦、「社会」とはそもそも何なのかについて考えてみたい。
人は、一人で生きてはいない。自然と集団生活するようになる。これはどの民族でも見られる現象だ。ではなぜ人は集団生活をはじめるのか。そのほうが一人で生きるよりも生存率が高まるからである。つまり、互いに助け合ったり、恵み合ったりしていたほうが生きやすいというわけだ。これが社会の始まりとするならば、「互助・互恵」が社会の基本通念だと私は考えている。

もし、村で働けない人が出たとする。重傷を負い狩りに出れなくなった。一部の人間と村長が「村のお荷物だ。殺そう」と判断し、殺したとする。するとどうなるか。村民に「ここは、働けなくなったら見捨てる村だ」との認識が広まり、村に不安を落とすことになる。自身が病気になったり、怪我をして狩りに出掛けなくなることを恐れるようになる。

話を現代に置き換えよう。
先月起きた障害者施設殺人事件の容疑者は、「障害者は社会のお荷物だから殺したほうがいい」という思想を持っていた。この思想と自己責任論は親和性が高い。「社会の役に立たない奴は排除したほうがいい」という意味において通底しているからだ。

事件後、日本障害者協議会の藤井克徳代表は敏感にそれを感じ取った。

 


社会的に生産力が乏しい、価値がない人間と断定して決めていく。現代で言えば社会的弱者となっていくんだけれども、これを無くしていこう。これが言わば「理想の社会」という考え方なんですよね。社会のコストを減らす、あるいは家族の負担を減らす。それは名目を付けます。しかし、じゃ、障害者が仮に消えるとする、その結果何が起こってくるかというと、次は今度の厄介物を探し出す。それは高齢者であったり、病気の女性であったり、病気の子供であったり、それをまた消していくと、次の弱者を探し出す。弱者探しの転嫁、弱者探しの連鎖になっていくわけで。結果的には一人握りの強者だけ残るという論理上になっていくわけですけれども、これはとっても怖い。障害者問題だけじゃなくて、これは色んな社会の層に普遍化される問題だということ。それが優勢思想の恐さだと思いますね。

 

先述したように、社会の基本は「互助・互恵」である(私が思うに)。だが、社会の規模が大きくなるにつれ、生涯に亘って助けられるだけの者も出てくる。社会のお荷物だから(になった)といって「自己責任論」を唱えて排斥してはならない。これを容認してしまえば、「役に立たない奴は社会から排除してもいい」という考えを認めることになる。つまり、先の事件を起こした容疑者の思想を容認することになる。

 

 

自己責任論は、国民のためにならない

もし自己責任論に基づいて、生活保護などを打ち切ったらどうなるか。
著者『生活保護vs子どもの貧困』(著者 大山 典宏)にこう綴られている。

生活保護を廃止してしまうと、結果は四つしかありません。死ぬか、罪を犯して刑務所に行くか、ホームレスになるか、精神的な症状が悪化して精神病院に入院するか──この、いずれかです。

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)

 

 

罪を犯せば私たちにも悪影響を及ぼす。精神病院に入院すれば結局国の援助が必要になる。自殺者が増えれば、これは社会が殺した(自殺を助長)ことになる。ホームレスが一番無害に見えるかもしれないが、町中にホームレスを散見するようになり、これもこれで町の状態としていかがなものかと思われる。結局、「自己責任論」は、何の問題解決にもならないのだ。

 

 

自己責任論は、国のためにならない

貧困問題に自己責任論を唱えても何も解決しない。特に子どもの貧困は、子どもに非が無い。子は親を選べないため、さすがに子どもに自己責任を押しつけることはできない。「子どもの6人中一人が貧困」は、もはや異常事態である。社会は、この問題に積極的に取り組み、貧困の連鎖を断つ努力を今以上にすべきである。

貧困は連鎖するため、子がそのまま親になれば、その子も貧困に陥る。進学へのお金が工面できず、低学歴になり就職できなくなるからだ。文部科学省にようと、就職率は大学卒業者が63・9%、高校卒業者が16・7%なのに対し、中学校卒業者はわずか0・4%になる。子どもの貧困を放置すれば、将来に亘って国の負担が大きくなる。早いうちに援助して進学させたほうが長い目で見て社会の助けは必要なくなり、優秀な人材が増えることは国益にも繋がるはずだ。

 

 

自己責任論は、どこからくるのか

「自己責任論」の背景には、日本人の持つ「人様に迷惑をかけてはいけない」という心性にあると私は考えている。生活保護というのは、言ってみれば人様に迷惑をかけている行為だ。こうした心性が背景にあれば、「自己責任論」を支持する人が多いのも頷ける。それに加えて、生活保護者がパチンコやお酒といった娯楽にお金に散財していれば、懸命に働いて納税している者が憤りを覚えるのも、感情論としては理解できる。だが、先述したように「自己責任論」へ持って行っても、誰も何も得をしない。それにそれは「成熟した社会」のすべきことではない。働けなくなってしまった人たちが立ち直ったり、連鎖を打ち切ったりし、生きやすいシステムを構築していくことが、社会の発展なのである。自己責任論は馬鹿でも唱えられる。そこには何の知性も感じられない。

それともう一つ、述べておきたい。人はいつなんどき、自身が弱者に転落するか分からない。明日、事故に遭い働けなくなる可能性だってある。突然、リストラされて再就職できない場合だってある。自己責任論は、自分がそうなったとき、自分の首を絞めることになる。

日本は成熟した社会だと思いたいし、そうあってほしい。現在、OECD諸国で4番目に貧困率が高いという不名誉な状態だが、いつしか解決に向けて妙案やプロジェクトが創出されることを期待したい。

 

 

跋文 

貧困問題は、経済問題や離婚問題などの複合的な問題が絡むため、もっと記したいことはあるが、今回は「自己責任」にのみ絡めて書いてみた。また機会があれば、記していきたい。

 

 

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