今、フリージャーナリストの安田純平さんがシリアの武装勢力から解放され賛否を呼んでいる。今回は、この一見についての私の意見と類推をお伝えしたい。
安田さんは、過去に何度も危険な場所に行き、何回か捕まってるそうだ。政府からも「危険だから行くな」と忠告されていたにもかかわらず、シリアに赴き、しかも政府批判のツイートもしてた。加えて本人も「自己責任で行く」と言っていたわけである。終いには拘束され、身代金を請求されたわけだ。
これらの背景を考えると、批判する人の気持ちも分かる。身代金はテロの資金源になり、当然よろしくない使われ方もする。批判の声ももっともだ。私も安田さんがした行動を諸手を挙げて褒める気にはなれない。
ただ「自己責任論」は、これら批判と次元が異なる。
今回の「自己責任」の意は、「危険が地域だとわかっていて足を踏み入れたんだから、政府に助けを求めるな。政府は助けなくていい。(つまり、死んでくれ)」である。その前提で話を進めていく。
この考え方はよろしくない。
なぜよろしくないのか。抽象度を上げて類推するとその理由が見えてくる。
自己責任論は、今回の件に限った話ではない。社会保障にも当てはまる。たとえば、離婚して一人で子供を育てなきゃいけない母親に対して、「自分の判断で結婚して子供を産み、離婚したんだろ」と自己責任論をぶつける人がいる。こうした同調圧力があるため、生活保護の対象にもかかわらず困窮状態を続け、再起する可能性を潰してしまう人もいる。
最近では、麻生財務大臣が知人の言葉「不摂生で病気になった人は自業自得。医療費を肩代わりで負担するのはアホらしい」を紹介して同調する姿勢を示した。麻生大臣は、知人に対して、「やむを得ない事情のある人もいる」と言ったが、この言葉は知人の言葉を打ち消してはいない。「事情のない人については、その通りだね」と言っているのだ。
麻生大臣は、2008年と2013年にも「たらたら飲んで食べて何もしない患者の医療費を何で私が払う」「政府の金で高額医療をやってると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらう」といった発言をし、後に陳謝しています。この流れから考えると、彼は今も昔も意見は変わっていないと見ることができる。
ほか、長谷川豊氏が2016年に「自業自得の透析患者は全員殺せ」と発言し炎上した。「不摂生(自業自得)な人間に対しては、医療費は使いたくない」という意味においては、麻生氏と通底する考え方である。こうした考え方は、最終的には優生思想と結びつく。その危険性は論を俟たないだろう。
自己責任論をもって安田さんを批判するということは、こうした麻生大臣や長谷川氏の発言を追認する形になる。つまり、「自己の責任によるものが大きければ、国は国民に対して社会保障を約束しなくてもよい」となるのだ。
日本には憲法25条「生存権」がある。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
この条文があるお陰で、様々な社会保障が整備されてきた。そして、それらを理由に幾度もなく増税もされてきた。社会保障の充実のためならと、国民は増税を呑んできたわけだ(これからも呑まされる)。
自己責任論は、憲法で約束されている権利、国家への義務を放棄、または条件付けを許す土壌を作ることになる。国民が自己責任論を発すれば発するほど、憲法をないがしろにする政治家が表れ、国民の生活や生命を軽視する国家になってしまうのだ(実際になりつつある)。
以上の理由において、「自己責任論」は軽々に叫ばないほうがよいと言うのが私の意見である。
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