なぜ、先生による体罰が支持されるのか?

ここ最近、話題になっている時事ネタに、「教師による生徒への暴力」がある。経緯を説明すると、高校生がわざと教師を煽り、先生に暴力をふるわせ、それを高校生の友達が撮影してネット上にアップした。

これについて世間では、「こんなふざけた生徒は殴られて当然」「たとえ煽られたとしても先生は殴ってはいけない」と、意見がふたつに割れている。

この件について、私なりの見解を述べたいと思う。
まずはじめにお聞きしたいことがある。あなたは、子供同士の喧嘩において暴力の使用を許容するか? 私は許容する。積極的に殴り合いをしろとは言わないが、ある程度は仕方がないと考えている。なぜなら、子供は問題解決数の選択肢が少ないからだ。

大人同士の揉め事は、法律とお金で問題解決ができる。しかし、子供にはその選択肢がない。法律の知識は乏しく、お金も持っていない。
仮に、大人の世界から法律とお金による問題解決の選択肢を取り上げたら、普通に殴り合いが発生すると私は考えている。大人でも殴り合いが発生するのだから、理性が成熟しきっていない子供なら、なおさらのこと。

さて、本題に戻ろう。
学校という場は、考えてみると特殊空間だ。子供同士でなければ、大人同士でもない、生徒(子供)と教師(大人)という関係だ。この半端な構図が話をややこしくしている。

「教師を舐める学生は殴られて当たり前」は、子供同士側に寄った考え方だ。一方、「どんなことがあっても教師は生徒を殴ってはいけない」は、大人同士側に寄った考え方だ。

私はどちらかと言えば、殴ってもいい派(子供同士側)である。だからといって、大人同士側に寄った考え方を否定する気はない。それもそれで正しいと思っている。

ただ、もし先生に大人としての振る舞いを求めるのなら、大人としての選択肢を与えてあげて欲しい。たとえば、授業中に騒ぐ生徒がいたら、営業妨害として訴えるという選択肢(権利)を持たせてあげたい。大人同士の世界なら、授業中に騒ぐのは営業妨害に当たるはずだ。

しかし現実問題、そうはならないだろう。
つまり、子供と大人という半端な構図に伴う損を、現状、先生が被っているわけだ。先生は、大人としての対応を求められる一方、大人が普通に持ち合わせているはずの問題解決の選択肢が取り上げられている状態なのである。こう考えてみると、先生という立場は何だか可哀想に思えてくる。

理想論や善悪ではなく、抽象度を上げて類推してこの問題を捉えてみると、学校は半端な場なんだと分かってくる。

 

 

具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ

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アナロジー思考

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