自分たちは“善”と信じている者は、人を差別する

絶対的な「善」は果たしてあるのだろうか。私は“ない”と考えている。
大航海時代より、西洋各国は植民地に対してキリスト教を押し付けてきた。彼らはそうすることが善であり、そこに微塵の疑いはなかった。キリスト教を広めためなら、虐殺も民族紛争をさせることも厭わず、手段を選ばなかったのである。

植民地となった国の中には、今もキリスト教が根付いているところもある。だが、誤解してはいけない。植民地はどこもキリスト教を歓迎していたわけではなかったことを。そして、最後までキリスト教を受け入れなかった植民地があったことを。この事実は、植民地から見てキリスト教が絶対的な善ではなかったことを示している。

一言で言えば、「自分たちから見て絶対的な善だと思っていることが、必ずしも相手にとっても善だとは限らない」ということだ。この点に置いて、多くの方に同意していただけると思う。だが、こと主観的になると、人という生き物はこの視点が抜け落ちてしまうものだ。

さて、例を変えよう。
植民地または併合した国に対して文明をもたらすことは、果たして善と言えるのだろうか。たとえば、近代建築物をはじめ、学校や発電所を作ってあげたり、鉄道や道路を引いてあげることなど。

一見、いいことのように思える。私個人としても、文明化が進むことは素晴らしいことだと思っている。だが、先に述べたように、絶対的な善などない。

ピンときた方もいるだろうが、この話は日本と韓国の話である。1910年8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合して支配下に置いた。その影響により、韓国の文明化を促すこととなった。

嫌韓な日本人は、韓国が併合される前と後の写真を比較し、「日本のお陰でこんなにも文明化したのに、なんで日本に対して文句を言っているの? 文明化させて、本当に申し訳なかったですねwww」と嘲笑している。

嫌韓な人たちが韓国を嘲笑している様を見て、「文明開化を絶対的な善だと思っているんだろうな。あぁ、キリスト教を広めた西洋人たちと同じ心性なのだろう」と私は感じた。「自分たちの行いは絶対に善であり正義」と思うことは恐ろしいことである。なぜなら、善や正義のためなら人は、人殺しや虐殺でさえも正当化してしまうからだ。それは歴史が証明している。

西洋諸国は、キリスト教を押しつけた元植民地に対して謝罪したほうがいいと私は思っている。同様の理由により、日本も韓国に対して謝罪すべきことをしたと思う。とはいえ、日本はもうすでに必要以上に謝罪と賠償をしているため、もうこれ以上する必要はないが。

現段階において、全世界の全人類が共有できる絶対的な“善”がない以上、宗教も文明化も必ずしも善ではない。そのため、日本人が韓国に対して、“文明化をしてやった”と思うのは、思いあがりというものである。

 

 

 

今こそ、韓国に謝ろう ~そして、「さらば」と言おう~ 【文庫版】

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