科学を信仰する日本人

先日メンタリストDAIGOの動画を見た。
動画では、集中力や意志力についての新しい論文を紹介していた。その中でDAIGO は、自分が過去に書籍に紹介した内容が覆ったといった旨を話している。
※書籍に紹介したものとは、おそらく「ウェルパワー」のこと。私も書籍『超・集中力』を購入している。

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要約するとこうだ。
以前DAIGOは、集中力や意志力の元となる"ウェルパワー”というものがあり、1日に出力できる量は限られている。使えば使うほど集中力は低下すると紹介した。しかし最近の研究では、タスクを変えれば集中力の低下は見られないことが分かってきたというもの。

考えてみれば、これは誰しも経験があるはず。
例えば、数学ばかり勉強していて集中力が下がったところで、ほかの科目に変えたら、気持ちを新たに勉強に取り組めるようになったといった経験。この誰もが"経験済み”のことが、今ようやく科学的に証明されつつある。

この件について、色々思うことがある。まず、メンタリストDAIGO でも先入観に陥るのだなぁということ。先にもお述べたように、"タスクを変えればまた集中できる”は、誰もが経験しているはず。だが、科学的な見地からあがってきたデータが経験と反していたとき、どうするのか。クリティカルシンキングがあれば、「ん? そうかな?」と疑問に思うはずだ。だが、聡明なDAIGOでも経験よりも科学を疑いもなく信じてしまったという事実に私は少し驚いている。

よくよく辺りを見回せば、似たような事象は珍しくない。
特に多いのが健康分野。自分が経験的に身体に良いと思っていた食事法が、栄養士や医者から身体に悪いと言われることがある。このとき、「あー、そうか」と信じる人と、「嫌、そんなことはない」と信じない人に別れる。私は後者だ。

実のところ、私は科学というものを信じていない。
「科学を信じていない」と言うと批判されそうだが、科学的に証明されていると言われているものは、基本「仮(暫定)」だと認識している。つまり、いつでもひっくり返る可能性を秘めているということだ。そのため、経験と科学が反していたとき、私は経験を優先する。少なくても、軽々に信じたりはしない。

そんな立ち位置のため、私は何かの主張に対して、「科学的に証明されていない」「科学的に否定されている」と安易に批判しない。この言葉を使うときは、少なくても科学と経験が一致しているときだけだ。

科学を絶対視する姿勢は、私から見て危険である。批判的に見る姿勢が欠如しているからだ。批判的に見ず、絶対視することを「信仰」と呼ぶ。日本人の多くは、この科学を信仰しているのではないだろうか。

誤解なきよう。「科学は信用できない」と言いたいのではない。科学をクリティカルシンキング(批判的思考)の見地から見ていないことに対して疑義を呈しているのだ。

ここ最近、政府公表の統計データが改ざんされていたことが明るみになった。データを改ざんするという愚行は許されるものではないが、一つだけポジティブに捉えることができる。それは、政府公表のデータでも「批判的に見たほうがいい」といったことを国民に学習させた点だ。

私も以前から、「政府のデータは本当に信用できるのか?」と思っていた。政治に詳しい友人にその疑問をぶつけると、「政府発表のデータまで疑われるほど信用が落ちたら、日本も終わりだな」と言っていたが、まさにその通りになってしまった。

科学にしろ統計にしろ、「絶対視」は危険である。そして、もっと自分の直感や感覚を信じてもいい。科学が台頭してきてから、この直感や感覚といったものを軽視する人たちが増えてきたように思う。とはいえ、すべて直感に従えばいいとは言わない。それはそれで危険である。

何かに傾倒するのではなく、要はバランスである。そのためにも、批判的に物事を見る姿勢を忘れてはいけない。

 

 

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