「馬鹿」と言う奴が馬鹿であるワケとは

友人が映画『沈黙』の批判レビューを感想を話してくれた。批判レビューには、「史実とは異なる」「キリスト教からの一方的な歴史解釈」といったものが多かったそうだ。友人はそれらを見て、「この人たちって、馬鹿なの? この映画は物語だし、ノンフィクションだなんて謳っていないのにね」と漏らした。


映画『沈黙-サイレンス-』日本版予告編


友人のこの言葉に私は少し驚いた。なぜならその友人は、私の友人の中でも“頭がいい人”の部類に入る人間だったからだ。私が考える“頭がいい”の要件の一つに、人の心情や事象に思慮をめぐらせ、推察または忖度できる姿勢を持っているがある。私が見る限り友人は、それができる人間だった。だが今回に限り、それができていない。なぜだろう?と私なりに考えてみた。

そういえば友人は「自分は政治に無関心」と以前から口にしていた。
「自分は選挙に行かない。だから政治にも一切文句を言わない」と公言しており、それはそれで潔いと私は思っていた。もしかしたら、この政治への関心の薄さが、今回の「馬鹿はの?」という発言に繋がったのではないかと思う。

どういうことかと言うと、政治へコミットするには、日本人(日本国民)としての責任や誇り、アイデンティティーが大きく関係すると私は考えている。

映画『沈黙』に対して批判した人たちはおそらく、一方的な見方で日本人が悪者として扱われていることに立腹したはずだ。なぜ立腹するのかと言えば、自分が愛する日本人の歴史や民族を歪曲され、見下されたと感じたからだろう。

「これは映画(物語)なのだから偏った見方もあり」と考え、映画を評論することも、もちろんできる。だが、立腹する人が出てくるのも別に不思議なことではないし、当然の感情だとも思う。

政治にコミットしていない友人は、おそらく批判レビューをした人たちの気持ちに思慮をめぐらせることができなかったのかもしれない。怒りに共感できないからこそ、批判レビュー者が「馬鹿」に見えてしまったのだろう。

以上が、私なりの推察だ。
この推察が合っているかどうかは分からない。大きく外しているのかも知れない。ただ、こうして相手の心情を理解しようと努めることが大切だと思うし、それを止めたとき人は、相手を「馬鹿」と言うようになるのだ。

 

「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」 ミトおばさんが教えてくれたオレの好きな言葉なんだ。オレには、2人が怒っている理由はとても大切なことだと思えるんだ。(アニメ『HUNTER×HUNTER』 ゴンの台詞より)