「特攻隊は無駄死にだった」の真意が理解できない自称愛国者たち

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生物学者の池田清彦さんがTwitterで「特攻隊は犬死です」と発言したら、「日本のために散っていった隊員を侮辱するのか」といった批判がネトウヨ群から相次いで寄せられていた。池田氏は、「犬死とは決して侮蔑の言葉ではありませんよ。何の役にも立たずに無駄に死ぬことです。」と釈明するが、どうもその真意がネトウヨには伝わらないみたいだ。


私も特攻隊は無駄死だと思っている一人である。この言葉は決して特攻隊員を侮辱する意図で言ってはいない。むしろ、前途ある若者の命を戦略的価値のない作戦で命を散らせてしまった憂いであり、それを実行した上層部への批判でもある。

戦略的価値がないと言うと、いや、「敵艦を沈没させ一定の成果を上げた」といった批判がくるが、そりゃ、どんな作戦でも一定の成果は上げるだろう。兵士の半数以上を餓死させたかのインパール作戦ですら、多少の成果はあったに違いない。けれども、多少成果があったからと言って、それが作戦として意味があったのか、戦局を変えうる作戦だったかと言えば、そうではない。

加えて言えば、「特攻も成果はあった」は、戦術と戦略が区別できていない人間であることを露呈する批判である。特攻は、ただ単に攻撃手段の一つであり、戦局を変えうるものではない。つまり、戦術レベルであって、戦局に影響を与える戦略ではないのである。

特攻作戦を始めた段階では、もうすでに日本の敗戦は決定していた。要は詰んでいたのである。詰んでいる状態での攻撃作戦は、無駄に傷口を広げるだけだ。

すでに詰んでいる状態にもかかわらず、王を取られるまでの間指し続けて、それで相手の駒を少しばかり減らしたからといって、何の意味があるのだろうか。

確かに、相手の駒を少しばかり減らせたかもしれないが、自分の駒も減らしている。この「詰み」以降に繰り広げられる戦術、それに伴う死者らを「無駄(無駄死に)」と言っているのだ。

野球でたとえるなら、自チームが9回表の攻撃で相手チームの点数を上回ることができなかったにもかかわらず、試合終了とせず、9回裏も戦うようなものだ。「特攻隊員は無駄死にだ」と言っているのは、「9回裏はやる必要ないよね。選手にしてみたら、ただの徒労だよ」と同義である。「日本のために散っていった特攻隊員を侮辱するな」という反論は、「選手は9回裏になっても懸命に戦っているんだ。侮辱するな」と言っているのと同じである。双方の論点が噛み合っていないのが。

冒頭と同じことを言うが、「無駄死だよね」というのは、「負けが確定しているのに、なぜ兵士(選手)を使って戦争(試合)しているんだ」という兵士(選手)への憂いであり、試合続行を決定した者への批判なのである。

 

 

不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書)

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  • 作者:鴻上 尚史
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/11/15
  • メディア: 新書