本当に「多様性を認めよう」は正しいのか?

ダーウィンの名言としてよく用いられる言葉がある。

この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ。

実は、ダーウィンはこんなこと一言も言っていない。
ソース:https://pixy10.org/archives/47471546.html

進化は、突然変異などによって”たまたま”その環境に適したものだけが生き残っていくだけであり、あくまでも結果論である。
たとえば、雪の多い地域では白い生物が多いのは、それは雪に紛れて白い色をしていた生物だけが食われずに済み、結果的に増えただけ、というふうに。

先の言葉だけではなく、進化論や生物学の言葉が間違った使われ方をしている感がある。その1つが多様性だ。「多様性=是」という考え方は、進化論や生物学の考え方である。種にとって多様性があることは、種を生き残らせる確率が上がるため是とされている。

昨今、「多様性を認めよう」という声が大きくなっている。もちろん、様々な人種がいることは種の観点から見てもいいことだ。ただ、それがいつの間にか価値観にまで転用されてしまっている。

西洋哲学を学んでいると(初学だが)、哲学者は「人類普遍の善とは何か」を探求している。ソクラテスはそれに人生をかけ、東洋哲学の孔子も老子も「これぞ人間が生きる道」を説いている。いずれも、人類(世界)を貫く真理を探求していたわけだ。実は、これと正反対に位置するのが多様性である。「みんなそれぞれの考え(善や正義)があっていいんじゃない」となるともう哲学は死ぬ。

それも一つの解かもしれないが、私的には「多様性な価値観を認めることは、諸手を挙げて是と言えるのか」を深く考えもせずに是とするのはどうなのかなと思う。ただ単に、「深く考えなくて済む正義(ローコスト正義)」に飛びついているだけではないだろうか。「多様性を認めよう」という声高な意見は「愛は地球を救う」と同レベルな安直な考えに思えてならない。

自分と異なった意見を持っている人がいて、その意見に耳を傾け理解しようとする姿勢こそが、結果的に多様性な考えを認め理解することになる。そういったコストも払わずに、「多様性を認めよう。認めるべき」といった結論ありきの考えは浅く、そのためか、「多様性を認めない考えも認めるのが多様性」という意見に対して、多様性主義者は「多様性を否定する意見は認めない」といった矛盾を平然と行ってしまう。

あなたに問いたい。あなたは熟考に熟考を重ねた結論として、「多様性を認める」の答えを導き出したのだろうか?

余談だが、人類に深く関わった動植物たちは多様性を殺されている。足の速い馬の種だけをかけ合わせたり、よく育つお米だけを育てたりと。ここらへんも人類のエゴが出ていて面白いなと思う。

 

 

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