多様性を叫ぶ人に限って、何かを批判してしまう自己矛盾

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クレームを言う多様性推進論者

多様性が叫ばれる現代、さまざまな場面で「多様性を認めろー! お前たちの考えは間違っている!」といった怒りの声をあげている多様性論者を目にする。この言説を耳にするたび、違和感を覚える人もいるだろう。「多様性を叫んでいる人らが、何で自分と異なる価値観を否定するのか?」と。

最近の例でいえば、選択的夫婦別姓である。
別姓を認めないとする反対派の意見に対して、賛成者らは「否定論者は多様性を認めていない」と批判する。だが、「別姓を認めないという価値観を否定するのは、『多様性を認める』の主張と反するのでは」と批判もされる。

つまり、
多様性を認める→多様な価値観を認める→差別や自由を制限する価値観であっても認めるべき→否定すれば主張に反する。というわけだ。

私はこれを「多様性の自己矛盾」と呼んでいる。こうした矛盾は、別姓問題に限らず、差別問題が話題に上がった時にもよく起きる。

多様性の自己矛盾を「いや、矛盾していない」と分かりやすく説明できる人は、思いのほか少ないのではないだろうか。あなたは説明できるだろうか?

 

 

2つの多様性

「多様性を認める」には、2つの形があると私は考える。
一つ目は、多様な生き方(価値観)を最大化させようとする考え方だ。生き方やあり方を否定する価値観は、多様性の最大化の妨げになる。よって、その価値観を否定する。

別姓問題で言えば、別姓を認めないというのは、「別姓」という選択肢がなくなる分、多様性が縮小する。だから否定する。となる

2つ目は、どんな価値観でも受け入れるという考え方だ。たとえ、どんな差別的な考え方であっても、賛成はせずとも排斥はしないといったものだ。この考えに立脚すれば、差別的な考え方を否定する態度は、「多様性を認める」に反することになる。

1つ目の考え方は自己矛盾を生じない、2つ目の考え方は自己矛盾を生じる。
この二つの考え方を知っておくことで、「多様性を認めろって言っているのに、自分らの意見以外は認めていないのか」といった現象をいくらか説明できるような気はする。

 

 

思考停止した「多様性=正義」

「多様性を認める」には、2つの考え方があると話した。この2つは、似ているようで全然違う。1つ目の考え方は、いたるところで様々な争いが起きるが、2つ目の考え方は争いが起きない。どんな気に食わない価値観であっても、最終的には「賛同できないけど、その考え方は否定しない」で決着するからだ。

どちらのスタンスを取るかによって、見えてくる世界が全く違うと言ってもいい。生き方も変わってくる。

では、私はどちらの立場でいるのか。実は、そのどちらでもない。そもそも多様性って本当に正義なの?と考えている最中だからだ。

逆に問いたい。
多様性は絶対的な正義だと、どうして言い切れるのか、と。どれだけ熟慮に熟慮を重ねて、その答えに行き着いたのか、と。

おそらく、ほとんどの人は熟慮なんてしていない。「そういう空気だから」「多様性を認めるって懐が大きそうだし」と、何となくで「多様性って大事だよね」となっているのだ。

熟慮も重ねずに辿り着く絶対的な正義を、私はかなり警戒する。

 

 

ご都合主義な多様性

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そもそも「多様性(=是)」は、生物学の言葉(考え)である。多様な生体や種がいるほうが絶滅のリスクが軽減する。ただ、「生物多様性」は、生物が意思を持って多様化しているわけではない。あくまでも、自分の子孫(DNA)を残そう、と活動した結果、多様化していくのだ。

多様性が是なのは、生物・生体の話であって価値観の話ではない。なぜか生物学の言葉を人間が価値観に用いて利用しているのだ。もし、生物に価値観があるとするならば、「子孫(DNA)を残せ」だ。生物の生きる目的はこの一点のみに集約される。そう考えれば、人間以外の生物は単一価値観となる。

「子供を産まない自由」は、人間社会では許されているが、生物の世界ではありえない価値観である。

それだけではなく、人類は生物多様性を無視している。自分にとって都合のいい種の品種改良を繰り返し、ほかの種を減らしてきた。豚や牛、鶏、野菜や果物、すべてだ。米はことさらひどく、もはや人間の助けなしでは繁殖できないようにまでなっている。

生物多様性を無視した生活をしながら、「多様性を!」と叫ぶ様を俯瞰してみると、なんとも滑稽に思えてならない。

 

 

赤子を殺しても許される多様性

出生前診断による堕胎は明らかな優生思想だ。多様性に反する。だが、個人の自由、多様性の下で許しているのはどうしてだろう。多様性を尊重するなら、この堕胎はいの一番に廃止すべきである。私が多様性推進論者なら、間違いなく堕胎を禁ずるように動く(ちなみに、年間15万人もの赤子が殺されている)。

現状を見るからに、「多様性」を自分らの都合がいいように分かりやすい正義として振りかざしているに過ぎない。私はそんな浅はかな人間にはなりたくない。本当に「価値観の多様性って正義なの?」をしっかりと熟慮して答えを出していきたい。

今言えることは、人口が増えることは生物多様性にも価値観の多様性にも寄与するということだ。人が一人増えれば、その分だけ、生体や価値観が増えるからだ。

そうなると、保守的な思想「女は子供を産むべき」が多様性に一番近い考えとなる。なんとも皮肉。今は人類の数は増え続けているため、多様性はちゃんと保たれている。多様性を心配する必要はないのかもしれない。

 

 

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