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人は情緒よりも便利さを優先してしまう生き物

私は趣味で写真を撮る。
10年ほど前、私はオリンパスのクラッシックカメラを愛用していた。クラッシックカメラはデジタルカメラとは違い、電気を一切使わない。そのため、シャッターを切るたびフィルムを1枚分自分の手で捲く。ピントも自分で合わせなくてはいけない。面倒なのはそれだけではない。フィルムを現像し写真になるまで数時間はかかる。プロ仕様のフィルムを使えば1週間近くも待った。コストも高く、36枚フィルムは1000円、1枚プリントするのに70円以上もしたのだ。

今では考えられない手間と時間、そしてコストをかけて1枚の写真を撮っていたのだ。それが当たり前の時代だったし、むしろ、そんな手間暇を楽しんでいた。フィルムを捲く感触。アナログならではの「カシャ」というシャッター音。1枚1枚ピントを合わせる緊張感。写真が出来上がるまでのワクワク感と出来上がりを見た時の感動。手間を楽しみ、間にワクワクし、出来上がりに一喜一憂した。面倒に思える手間や時間に味わいがあった。

今ではデジタルカメラが主流になり、スマホや携帯電話にはカメラが搭載されている。それも驚くほど綺麗に撮れる。便利になったことで、簡単に安く写真が撮れるようになった。しかし、それと同時に、手間や時間に含まれていた楽しさやワクワク感、感動なども一緒に失ってしまった。

「あの頃はよかったなぁ~」と、昔にひたる気はない。
こんなことを書いている私ですら、デジタルカメラは手放せない。もう、クラシックカメラには戻れないのだ。
ただ言えることは、何か一つ便利になるということは、手間や時間というプロセスを減らし、同時に多くの味わいを失う。それでも僕らは、便利さを選ぶということだ。

これは何もカメラに限った話ではない。
私たちの生活の中には、多くの電化製品がある。その数だけ、便利になっている。

私は今、ささやかな足掻きをしている。
スケジュール管理は、手帳を使い、ペンは万年筆を使っている。紙の上での手間や時間を楽しむようにしているのだ。だが、いつかきっと、これもデジタルの波に飲まれるのだろう。僕らは知らず知らずのうちに味わいよりも便利さを選ぶのだから。無駄を最大限省いた先にある未来は、どんな世界なのだろうか。