露出度の高い服を着た女性が治安の悪い場所を歩いていて襲われたら、どっちが悪いのか

知り合いの女性が男性に騙された。彼女は出会い系サービスを利用し、そこで知り合った男性と付き合うことになった。しかし、後で分かったことだが、男性には妻子がいたのだ。

この話題を、共通の友達(男1:女1)と話をした。そこでの会話が示唆に富んでいたので記しておきたい。

私「出会い系を使えば、まぁ、変な男に会う確率的は高くなるよね。」

男友達「出会い系は、どうしても変な人が必ず紛れてきますからね」

私「出会い系に手を出すんだったら、そのリスクは想定しておかないといけないし、警戒しないといけない」

女友達「でもさそれって、夜道をミニスカートで歩いていて襲われたら、襲った相手ではなく、女が悪いって論理じゃない!」

男友達「いや、良い悪いの話じゃないよ。良い悪いで言ったら、そりゃ、騙したと男や襲った男が100%悪い。そうじゃなくって、そういう場所(危ない場所)に行けば被害に遭うリスクは高くなるよね、という話」

女友達が挙げた例、「露出度の高い服を着た女性が治安の悪い場所を歩いていて襲われたら、どっちが悪いか論」はよく聞く話だ。だがこれは、事象を「良いか悪いか」という一つの評価軸でしか見ていない。男友達は、そこにもう一つの評価軸を入れた。「リスクの高低」である。

女性が襲われたら云々は、「襲われたら当然襲った男が悪い(倫理的にも法的にも)。だが、襲われるリスクの高い行動ではある」という評価(表現)が適切だろう(リスクの高低は状況によって変わる)。二つの評価軸で語ったほうがいい事柄を、無理やり「良い悪い」だけの一つの評価軸で語れば無理が出てしまう。だから、「男が悪い」「女が悪い」といった、どっちかが悪になるといった極端な論争になってしまう。

この会話を聞いて、10年時ほど前、紛争地域に行き人質されたボランティアたちを思い出した。この時も「自己責任論」が飛び交い、無事帰国した人たちに非難の声が浴びせられた。私はこの様相を見て、「なんでそんなに非難されなきゃいけないの?」とモヤモヤした気持ちになった。この違和感を今なら説明できる。

この事象には、先の評価軸二つに、もう一つの評価軸を足す必要がある。それは、「目的意識の有無」である。

「人質問題は、当然、人質を取る人間が悪い。だが、紛争地域に行く行為は危険な行為と言わざるを得ない。だが、彼らには紛争地域で苦しむ人たちの一助になりたいといった目的意識があった」。これが分別した評価だろう。(ちなみに、先の女性が露出の高い服で云々の例は、目的意識が無い前提なので、二つの評価軸だけ)

この3点の評価軸を加味して人質事件を語る必要がある。それを、一つの評価軸「良いか悪いか」だけで無理やり押し込んで論じるから、「自己責任論」つまり「紛争地域に行くお前らが悪い」となってしまう。本当は、そんな単純な話ではないのに。

人は、ほうっておくと「良いか悪いか」の一元的な評価をしてしまう。「良いか悪いか(善悪)」の話になったとき、もっと他の評価軸はないのかと一旦立ち止まって考えてみるのがいいだろう。