「漢文・古文に限らず、学校教育の大半は生産性が低い」と認めちゃいなよ。話はそれからだ。

本記事は、以下のブログをネタにしている。

要約すると、「古文・漢文って、時間を割いて勉強するほど必要性ってあるの? ましてや受験科目にする意味ってあるの?」という問題提起のブログ記事である。

この主張に対しての反論記事もある。

要約すると、「漢文・古文は、教養や読解力を養えうことができる科目である」という主張だ。

 

漢文・古文に限らず、「この勉強(科目)は、一体何の役に立つのか?」という問いに対して、必ず一定数の人間が「〇〇に役立つ」とか言い始めるが、問いを立てた人は、「生産性」の話をしているだと私は察する。

以前、ブロガーのちきりんがTwitterで「学校は学びの場としてあまりに生産性が低い」とツイートしたら、反論してくる人の大半が、「私はこういうことを学校で学んで、それが社会に出てから役立った。だから学校には価値がある」と言ってきたそうだ。生産性の観点が抜き落ちている。そりゃ、どんな科目も1ミリぐらいは役に立つだろう。そうではなく、「生産性=コストに対しての価値」を見てほしいのだ。


漢文・古文に限らず、学校教育の大半は生産性が低い。おそらく、漢文・古文は、特に生産性が低い科目だろう。

だが、冒頭のブログへの反論ブログがあるように、「価値がある」と説く人もいる。しかしそれはバイアスだ。人は、生産性が悪い科目でも、頑張って勉強したら「あれは役に立つ」と言い、正当化しようとする。気づいてほしいのは、生産性の低さをに目を瞑る行為は、日本における労働生産性の低さに目を瞑る行為と地続きになっているということである。

昔の人間が、生産性の観点を無視して、「長時間労働には意味がある。あれがなかたら高度成長はなかった」と言うのと、苦労して勉強してきた人間が、生産性の観点を無視して、「あの勉強には意味がある」というのは、同じ次元なのである。
※ちなみに、高度成長は長期労働ではなく人口増加によるものが大きい。

「生産性」と言うと、「勉強は、実学やメリットなどでは測れない、教養を身につけりるものだ」と反論する人もいるだろう。確かに、勉強は実学だけではない。教養を育むものでもある。だが、生産性は、投資に対してもたらされる価値であり、この価値に何を置くかは自由である。当然、教養もだ。

100時間かけて古典を学んでいたのが、効率的な勉強法が見いだされ、20時間で身につくようになれば、それだけ教養も早く身につく。そして、余った時間をさらに別の勉強に費やすことだってできる。勉強において、生産性が向上して失われるものは何一つない。

冒頭に紹介したブログ記事が主張する通り、古文・漢文の科目はあまり役に立たないだろう。だからと言って、勉強科目から外せばいいとは言わない。そうではなく、漢文・古文の生産性を上げるように努めるべきなのだ。

基本、学校の勉強は「価値を高める」ことはあまりできない。そのため、「投資を下げる」に注力すべきである。「投資を下げる」とはつまり、「効率的な学習法を常にアップデートしていく」という意味だ。日本教育の場は、このアップデートをここ何十年もしてきていない。

「二次方程式」は、私が中学3年生の頃に習っていたが、今も同じ学年で習っているとすれば、アップデートされていないことになる。20年も経過しているのに。中学1ぐらいで習わせろよと思う。

今、AIを使った勉強は、学校教育の6倍早く学習できるようになっており、中学1年生の数学は32時間で終了できるようになっている。時間が止まったままの勉強を学生にさせていれば、その生産性の低さから「これって勉強する意味あるの?」と思いたくもなる。今よりも何倍も早く学習速度が向上すれば、「勉強する意味あるの?」の問いは、減ってくるようになるだろう。漢文・古文だって10時間で終わる科目であれば、そこまで文句言う奴はいない。

 

 

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