辺野古の座り込み看板、ひろゆきの言っていることは餓鬼の論理

辺野古にある、基地反対の座り込みの看板を見たひろゆきが「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にしたほうがよくない」と発言した。

この発言を受けて基地反対運動をしている人たちは、沖縄の気持に寄り添っていないとひろゆきに文句を言っている。ひろゆきが言うように、表現は適切ではないと私も思う。同時に、基地反対運動をしている人の言うことも理解できる。

基地問題は、政治的な思想が大きく介入して感情バイアスがかかりやすいため、ほかの話に喩えたほうがいい。

レイプ被害に遭った女性が加害者の男性に対して「あの男は獣だ。人間じゃない」と言ったとする。それを聞いた人が「男性も人間ですよね。辞書によるとこういう意味ですよ」と言い出したようなもの。

批判するの、そっち?
加害者ではなく、被害者側の言葉尻をあげつらうの?

基地反対派の人が抱く気持ちはこんな感じだと思う。だから、なぜ反対運動をしているのか考えろと批判したくなる気持ちは分かる。だが、ひろゆき擁護派からしたら、論点ずらしに見えてしまうのだろう。

沖縄基地は、民主主義的な手続きは一切行われずに建設されて来た歴史がある。国土の1%にも満たない沖縄に、日本にある基地面積の70%が集中しているのだ。

つまり、自覚しているしていないに関わらず、本土は沖縄に基地を押し付けている形になる。その結果、沖縄は米兵による犯罪や墜落事故、騒音問題といった負の面を引き受けることになった。本土は、そうした被害はなく、ただただ抑止力から得られる安全だけを享受している。

本来、基地問題は沖縄だけではなく、日本の問題であり、日本国民が当事者意識を持たなくてはならない。にも関わらず、本土の人間は基地問題を「沖縄の問題」として捉えている。これが日本に根深くある構造的沖縄差別だ。

「正しく表現したほうがいいと思いますよ」といった態度は「外部」的な姿勢であり、こうした本土の姿勢や態度によって沖縄はずっと苦しめられてきた、差別されてきたのだ。そんなことも考えず、無邪気に笑顔で記念写真を撮る行為が何を踏みにじっているのか、よくよく考えたほうがいい。

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